フォーミュラ1世界選手権は北米と欧州を股にかけた11のグランプリを消化した。
一戦ごとに微妙に、あるいはがらりと変化する時差と気候に体とマシンを適合させながら、22人のドライバーたちは転戦を繰り返した。
あるグランプリでは市街地を走り、またあるグランプリでは終始アクセル全開に近いレースを展開。豪雨による最悪の路面状況で、思うようなハンドリングが取れないというレースもあった。
さらに別のグランプリではテロ対策としてスタッフの手荷物まで細かく検査が入り、物々しい雰囲気が漂ったこともあった。
様々な想定内外の出来事を乗り越え、現在のドライバーズポイントの順位は、Mibroレーシングの沖田総司がトップ、
同じくMibroの斎藤一が2番手、チームEdgeの藤堂平助が3番手に飛び込んでいる。
チーム毎のコンストラクターズポイントは、やはりチームMibroがトップを快走。
ライバル視されているチームEdgeは、監督である伊東甲子太郎の弟で藤堂と並ぶドライバー・三木三郎の成績に波があり、
コンスタラクターのタイトル争いからは一歩外れている。
前回のグランプリ後、伊東はインタビューにこう答えた。
「我が弟ながら情けない。正直に言えば、今すぐにでもシートから外したい」
もしかするとシーズン途中での交代もありうることを示唆し、兄弟であろうと勝負の世界に情けは無用とばかりの態度にスポーツ誌の一角はざわめき始めた。
欧州を回るラウンドが終了して、各チームが忙しく移動する次の舞台は、夏がそろそろ終わりを告げようとする時期の日本グランプリ、富士スピードウェイサーキットのある日本。
レースが開催される国の出身のチームやドライバーにとって、自国で行われるレースは“母国グランプリ”と呼ばれる。
今回の日本グランプリはMibroレーシングやチームEdgeの面々にとってがそうだ。
ドライバーやスタッフ、機材のすべてが「純国産のチーム」であり、今年はほとんどのレースで優勝争いに加わり、
年間の総合優勝も夢ではないとなれば、日本国内が騒然となるもの無理はない。
日本は今、根っからのF1ファンも、スポンサーも、そして普段は興味を持たない人たちも、空前のF1人気に沸いていた。
最も暑い時期を過ぎたとは言え、晩夏の日本はまだまだ暑い。
空港でそれ以上の熱狂的な歓迎を受け、クロタニ本社へ戻ってきたMibroレーシングのスタッフ一同。
日本独特の湿度の高い暑さと嗅ぎ慣れた空気の匂いに、帰ってきたという実感が沸いた。
だが、帰ってきても忙しさは相変わらずだった。
日本グランプリに合わせたセッティング、細かいパーツの入れ替えとテスト、情報の採取、そして何よりも時間を取られるのがプロモーション活動やインタビューであった。
今シーズンの派手な活躍で、Mibroの知名度はうなぎ上りである。
母国に凱旋してきた選手たちには、当然のように取材が殺到していた。
土方の手によってそれは見事に振り分けられ、あとはスケジュールに従って動くのみである。
本社でも歓待を受け、チームのオーナーであり社の会長の松平容保からも労いの言葉を受けたスタッフは、それぞれの持ち場へ散って行った。
事務所やファクトリーヘ皆が向かう中、ドライバーの3人、沖田総司・斎藤一・神谷セイは、近藤の部屋へ呼ばれた。
「失礼します」
沖田を先頭に、3人が入室した。
中には、近藤が大きなデスクの前に座り、その傍らに土方が書類を持って立っていた。
「3人ともご苦労だったな。久しぶりの日本だ、少しはリラックスできるといいんだが・・・そうもいかないようだ」
近藤は苦笑して、視線を土方にやった。
「まぁそういうこった。とりあえずお前らも座れ」
近藤のデスクの前に並んだパイプ椅子に、3人は座った。
「日本滞在中のスケジュールだ」
土方がひとりひとりに書類を手渡す。
左肩を12号針のホチキスで止められた分厚い書類には、今日から日本グランプリを終了して次のレースに移動するまでのスケジュールがびっしりとプリントアウトされていた。
「時間をやるから全部読め。その後質問を受け付ける」
土方の言葉に、3人は頷いて紙をめくり始めた。
スケジュールには日付とその日に行われる走行練習、トレーニング、ファクトリーの作業、スポンサー主催のイベント、取材などが細かく書かれていた。
もはや練習の合間に取材が組み込まれているのか、取材の合間に練習が組み込まれているのかわからない。
酷い時には数分おきにある『取材』の文字に、一同は今からげんなりである。
セイはグランプリの行われる週の金曜日のスケジュールをめくった。
『フリー走行 AM:沖田/神谷 PM:沖田/斎藤』と書かれていた。
そして土曜日の予選と日曜日の本選の控え選手のところに、自分の名前があるのを確認した。
せっかくの日本だ、本当は母国で走りたい。
しかし、ドライバーとしては3番目に座している自分には、金曜のフリー走行が精一杯なのも理解している。
少しだけ残念な気分だったが、僅差の優勝争いが繰り広げられている今、ドライバーの交代は有り得なかった。
「読み終わったか?質問はないか?」
たっぷり2回ほど読み返せる時間が過ぎた頃、同じ書類を手にした土方は3人を促した。
同じく書類に目を通した近藤も顔を上げる。
ドライバーたちがそれぞれに手を挙げて、ここのスケジュールはこうしたほうがいいとか、
ここではもっと時間をとってほしいとか、このスケジュールは無理なんじゃないかなどを、上司ふたりに進言した。
それに対し、主にスケジュールを組んだ土方から説明があり、ほとんどが合意に達した。
近藤はそれを聞きながら時々口を挟む程度であった。土方の組むスケジュールには絶対的な信頼を置いているらしい。
「キツイとは思うだろうが頑張ってくれ。今回のレースもいい結果を出せるよう、皆で力を合わせていこう」
資金力がモノを言う部分が大きい世界である。成績を出すことももちろんだが、あらゆるメディアに出て好印象を与え、より多くのスポンサーを獲得することも必要なのである。
近藤の言葉で、ミーティングが締められた。
その時、ドアをノックする音が2回響いた。
「古川です。監督、いらっしゃいますか?」
「ああ、古川君、入りたまえ」
ガチャリとノブを回して入ってきたのは、Mibroのデザイナー・古川兼定。
彼はMibroのレーシングカーをデザインしている。ビークルダイナミシスト―車両運動力学の専門家であり、
彼の作るマシンを手に入れる事が勝利への近道といわれることもあるほどの実力者だ。
実際、近藤が現役時代に2位入賞した時のマシンも古川の設計によるものだった。
論ずるまでもなく、F1における車両力学は非常に重要なファクターである。
超高速で走るマシンの「走る」「曲がる」「止まる」をいかに制御するか。
また、エアロダイナミクス―空気力学と組み合わせ、どのパーツでどのように風の抜け道を作るか、
それによって生まれる車体を地面に押さえつける力・ダウンフォースをいかに得ていかに制御するかがレースを左右する因子のひとつなのだ。
「失礼します。新パーツのデザインが出来ましたので、ご報告に上がりました」
丁寧な物腰で古川は入ってきた。
「古川さん!お久しぶりです」
沖田が破顔して古川を迎えた。
「沖田さん、連勝おめでとうございます。なかなか現地へ行けなくて申し訳ないんですが、データはすべて拝見していますよ」
「いいえ、古川さんのクルマがあるからこそここまで順調に来ているんです。残りのレースもよろしくお願いしますね」
ふたりは固く握手を交わした。
「斉藤さんも、毎回の表彰台で素晴らしいですね。何か駆動系のことで問題はありませんか?」
「いや、何も無い。成績どおりだ」
斎藤も珍しく雰囲気を和らげて言葉を交わした。
「古川さん、お疲れ様です」
今度はセイが古川に話し掛ける。
「神谷さんも、データ拝見してますよ。いい走りですね。ステアリングは手にフィットしていますか?調整しますよ」
古川はセイの手を取り、彼女のステアリングについて細かく聞いた。
「・・・古川、報告に来たんじゃねぇのか」
なかなか本題に入らない古川に、土方が突っ込んだ。
「あっと、すみません。監督、こちらがそうです」
古川は苦笑いして、小脇に抱えていた角型封筒を近藤に手渡した。
近藤と土方が中身を取り出して確認する。そしてあれこれと古川に質問していた。
「よろしかったら、もう少し詳しくご説明いたしますが・・・土方ディレクター、このあとお昼でもご一緒に・・・」
古川が伺うような目つきで土方を見た。
「・・・ああ、残念だが今日は無理だ。明日の昼なら空いている」
土方は一瞬何かを感じたようだったが、すぐにいつもの雰囲気を取り戻して古川に伝えた。
「では明日、ここで待ち合わせでよろしいですか?」
古川が目を輝かせた。
「ああ」
「ありがとう古川君、明日土方君と打ち合わせたらすぐに着手してくれ」
近藤は古川のデザインを封筒にしまい、明日また持参するように言って戻した。
「はい、ありがとうございます。ではディレクター、明日、また」
「ああ」
心なしか軽い足取りで、古川は退室した。
ドライバーの3人は一部始終を見ていた。
「・・・沖田先輩」
セイがこっそり隣の沖田に耳打ちする。
「どうして土方ディレクターって、伊東監督といい古川さんといい、男の人にモテるんでしょうね」
「っぷ、神谷さん、それ言っちゃいけませんよぅ」
ふたりしてくつくつと肩を震わせた。
「お前ら、何がそんなに楽しいんだ?」
土方が歩み寄り、分厚いスケジュールを丸め始めた。
「いいえ、何も?」
「何もありませんって!」
「何もねぇって顔じゃねえだろ!」
すべてを見通している土方は、セイと沖田の頭上にスケジュール表を叩き落した。
痛がるふたりの横で、斎藤がよせばいいのにと言った顔をしていたのは言うまでもない。
走行テスト、インタビュー、トレーニング、走行テスト、取材、写真撮影、イベント、トレーニング、走行テスト。
スケジュールに従ってひたすら日程が消化されてゆく。
しかもインタビューや取材の内容はどこも大抵同じだ。
「これまでの快進撃をどう思われますか」
「今シーズンの優勝の可能性は」
「日本グランプリへの意気込みをお願いします」
やたらに追いかけられるので自宅にも帰れない。
ホテルを出た瞬間からあちこちへの移動中、そしてホテルに帰るまで必ず人の目とカメラがある。
だが沖田と斎藤はそれぞれ笑顔で、あるいは表情の読めない顔つきで人の波を交わしてスケジュールを消化していた。
セイも二人ほどではないが注目度は高く、常に人目のあるところでの生活を強いられていた。
女性ながらレースの世界に身を置いていることに対して視線が集まっている事には、GP2までの選手期間でも経験してきた。
しかしF1の舞台に上がると、それまでの注目など足元にも及ばなかった。
正直、マスコミの多さには辟易していたが、不満ひとつ漏らさない先輩ドライバー二人を見習い、セイも余計なことは言わないようにしていた。
ある日、モータースポーツ誌の取材が入っていた。
同期三人組の座談会を掲載したいとのことで、沖田・斎藤、そしてチームEdgeの藤堂平助が呼ばれていた。
セイも同じ雑誌でインタビューを受ける事になっていたので、一緒に現地に入った。
メイクをしてもらい、涼しい控え室で待つ。
呼ばれるまでその場に置いてあった雑誌をなんとなくめくったりして時間をつぶしていた。
待っている時間は退屈だが、こんな風にひとりで静かに時間を過ごすのは久しぶりのような気がする。
よく考えたらここに入る時間は普段の取材より少し早めだったような。
もしかするとこれは土方の計らいかもしれないという考えが頭をかすめたが、日ごろの鬼っぷりからは想像できない。
セイはひとりでぷっと吹き出してしまった。
その時、部屋のドアがコツコツとノックされた。
もうスタッフが呼びに来たのだろうか。
「どうぞ」と声をかけると、きしんだ音を立ててドアが開いた。
「神谷ー、久しぶり」
ドアの向こうからひょっこり顔を出したのは藤堂だった。
「あ、藤堂さん!」
沖田・斎藤とポイント争いをしている藤堂平助。
かつてはMibroレーシングに在籍していたが伊東甲子太郎とともに離脱し、現在は伊東の立ち上げた新チームのドライバーとして活躍している。
先ほども紹介したが、沖田・斎藤とは年齢もデビューも同じ年で、モータースポーツ界では昔から何かと話題になっていた。
同じチームに揃って入り、同じ車の開発に携わってきたが、藤堂ひとりが離脱するとわかったときには周囲は大騒ぎになった。
だが本人たちは至って冷静で、別れの寂しさはあったものの藤堂の新たな旅立ちを祝福した。
ひとつのチームに許されたシートはたったのふたつ。
そこにいつまでも3人でいても何も変わらない。
藤堂は苦悩の末、同じレーシングスクールの先輩である伊東についていくことを選んだ。
そしてそれは成功し、今やチームEdgeのトップドライバーになっていた。
「おひとりですか?」
セイは椅子を藤堂に勧めながら話を続けた。
「うん、三人で写真撮って、俺ひとりの写真撮って、今はあいつらふたりで撮ってる」
藤堂はその椅子に遠慮なく座った。
「お疲れ様でした。座談会、どうでしたか?」
「うん、久しぶりに皆で話したから楽しかったよ。グランプリが始まっちゃうとどうしても忙しくてさ、レースの時しか会えないし、ゆっくり話も
できないだろ?」
藤堂は本当に楽しそうな表情で、どんな話をしたとか、その時に沖田や斎藤がどんな反応をしたかとかをセイに話した。
セイはそれに頷きながらも、どことなく浮かないような顔になった。
「神谷どうしたの?俺、何かまずいこと言った?」
藤堂が気がついてセイの顔を覗き込むように聞いてきた。
「あ、す、すみません。いや、すごいなぁ、と思って」
セイはできるだけ笑顔を作って藤堂の方を見た。
「え?」
藤堂が、何が?と言うように眉を顰めた。
「だって、藤堂さんや沖田先輩や斎藤先輩は、今やF1のトップドライバーとして分単位・秒単位のスケジュールをこなしているのに、
そんなに楽しそうに走る事以外の仕事も引き受けて笑ってるんだもの。私なんかサードドライバーで本選にも出られないのに
こうしてインタビューとか取材とか撮影とかだけで疲れちゃって」
それも仕事の内なのにダメですよね、とセイは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「でも、金曜日のフリーに出してもらうようになってから思うようになったんです。走りたいって」
膝の上でぐっと手を握り締め、セイは藤堂の目を見た。
「私も、本選でレッドランプが消える瞬間を、コックピットで見たいんです」
一瞬、藤堂は目を見張ったが、やがて目元を和らげてセイの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「と、藤堂さんっ」
「そうか、神谷もそこまできたか」
ひとしきり髪を撫でた後、藤堂はふーっと息を吐き出した。
「そこまでって・・・」
鏡に向かって乱れた髪を直しながらセイは聞いた。
「俺も同じ事を思ってたよ」
「え?」
手を止めて自分に視線を送るセイとは目を合わせず、膝に肘をついて前かがみになり、藤堂は低い声で話を続けた。
「俺もMibroに入ってしばらくした頃、そう思うようになってた。同期三人組ってことであちこちから取材を受けたりしてたけど、
俺がやりたいのはこんなことじゃないって。俺は走るためにここにいるんだって」
今までの明るい藤堂とはまったく違う、重々しい雰囲気だった。
セイはごくりと唾を飲み込んだ。
「テストでも走らせてもらってたけど、俺は、もちろん俺だけじゃなくて総司や斎藤もだけど、本選で走る事を夢見て頑張ってきたんだ。Mibroに
入ったときはすごく嬉しくて仕事も楽しかったし、スタッフの皆ともうまくやってたけど、その反面、このままじゃダメだって思う自分がいた」
「そんな時だったよ、伊東監督から声がかかったのは。外資からのバックアップで新チームを立ち上げるから一緒に来ないかって」
そこまで話してやっと藤堂はセイの顔を見た。
「伊東監督も現役時代からいつか自分のチームを作りたいと思ってたんだ。だからMibroにずっといても何も変わらない、総司や斎藤と同じ速さの
俺をもったいないって言ってくれて、自分の所に来て欲しいって言われたんだ」
「藤堂さん・・・」
「悩んだよ。近藤さんも土方さんも、もちろん他の皆のことも大好きだったから。でも、俺は自分のために決めたんだ」
「Mibroを、離れるって・・・」
セイの言葉に藤堂は力強く頷いた。
「Mibroから抜けたことは寂しく思うけど、後悔はしてないよ。結果も出てるし。もし出なくても、きっと後悔しなかったと思う。自分で選んだ
ことだから」
するすると出てくる藤堂の台詞に微塵の嘘も偽りもないことをセイは感じ取った。
「だから、神谷も」
どきり、とセイの心臓が跳ねた。
・・・聞きたい、でも聞きたくない事をこれから藤堂は言おうとしている。
「いつか選ばなきゃならない時が来るかもしれない。その時に、自分の気持ちに正直になるんだ」
それは、いつか自分にもこのチームから消えるときが来る事を表している。
セイは肩を強張らせた。
「今神谷がやるべきことはチームへ忠誠を尽くす事だ。でも、いつか神谷が分かれ道に立つ時がきっと来る。わかるだろ?」
藤堂は静かに、言い聞かせるようにセイの肩に手を置いた。
セイは返事をしない。
「総司と斎藤の実力は、今となっては俺よりも神谷のほうが知ってるはずだ。もし時が来て自分の心に聞いてみた時に、何が自分にとって一番大事なのか
間違っちゃいけない」
今のままでは正ドライバーになれる確率はほんの僅かしかない。
それでも今の状態を保ちたいがためにチームに残るのか、
何もかもを捨てて新しいものを手に入れるために飛び出すのか、
時が来てそれを経験したこの人は、今、それを私に問おうとしている。
「ごめんよ神谷」
肩から手を離して藤堂は謝った。
「え?」
「何もこんな話をするためにここに来たんじゃなかったんだけどな。ただ神谷が来てるって言うから久しぶりにちょっと話そうと思っただけなのに」
しょぼんとして藤堂は下を向いた。
「そんなことないです藤堂さん。ありがとうございました」
セイは慌てて藤堂に礼を言った。
「いいお話を聞かせてもらいました。私も自分のこと甘かったと思います。気合入りました」
そしてぐっと両手を握り、力こぶを作るようなポーズを見せた。
ふっと藤堂が笑う。
「そっか、よかった」
お互いに顔を見合って、ふたりは笑った。
その時、ドアがノックされた。
「神谷さん、そろそろお願いしまーす」
セイのインタビューの順番が来たようだ。
「はい、今行きます」
がたりと椅子を動かし、セイは立ち上がった。
「じゃあ頑張ってね神谷」
藤堂がドアの前まで一緒に歩く。
「はい、藤堂さんも頑張ってください」
応援は出来ませんけど、と笑顔でセイが返した。
「あ、そうそう、まだヒミツなんだけどさ」
ドアをあける直前、藤堂がセイに耳打ちした。
「とうとう三木さんがクビになることが決まったんだよ。それでウチもサードドラーバーをデビューさせることにしたんだ」
「ええっ」
セイは耳を疑った。
三木は確かに今シーズン成績が振るわないが、それで監督・伊東の弟だ。いくら口で言ったとしてもクビだけはないだろうと踏んでいたのに。
それにサードドライバーとは、確か・・・。
「総司にも斎藤にも言ってないんだからね、絶対ヒミツだよ」
ほら行った、と藤堂はドアノブを回してセイを押し出した。
ちょうどそこに呼びに来た女性スタッフがいたので、セイはそのまま連れて行かれてしまった。
後ろを振り返りながら手を振るセイを藤堂は見送った。
廊下の角を曲がり、彼女の姿が消えたところで手を下ろした。
藤堂は天井にはめ込まれている蛍光灯の無機質な光に照らされながら、セイとは反対の方向へ歩き出した。
「これで約束は果たしたよ、土方さん・・・」
同時刻、クロタニ本社、近藤のオフィス。
「トシ、それは本当なのか?!」
近藤は座り心地のいい本革のエグゼクティブチェアを倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
バンと大きな音を立てて叩かれた机の上の小物が揺れる。
カップの淵からは、今淹れたばかりのコーヒーが零れた。
「ああ本当だ」
土方は分厚いスケジュールを手にして冷ややかに言った。
「いや、しかしそれは・・・」
近藤は困惑の表情を浮かべる。
手を固く握りしめ、土方が告げたことに反対したい気持ちをやっと抑えている。
そうしないのは、それが正論でもあると頭の隅で理解しているからだ。
「すべてはチームのためだ。アンタには俺の計画を正確に理解していてもらわないと困る」
「だか・・・そのために神谷君を・・・」
「あいつは何も知らなくていい。いや、知ってもらっちゃあやり辛くなる」
土方はスケジュールの中から金曜日と土曜日と日曜日のページを破り取った。
さらにそれをある程度の大きさに破り、大きなガラスの灰皿に突っ込んだ。
「いいな、すべてはチームのためだ。これが成功すればこの先どうなるか、アンタにもわかるはずだ」
土方は胸のポケットからライターを取り出した。
しゅ、という音とともにオレンジ色の火が灯り、辺りにオイルの匂いが漂った。
土方は火を灰皿に近づける。
「トシ」
横から近藤が手を伸ばし、ライターを取った。
土方はライターに向けていた視線をゆっくりと近藤に向ける。
奪い取られたことで一度消えた火を、近藤の太い指が再点火した。
「すべてはチームのために」
厳かに近藤は言い、灰皿に置かれた紙に火をつけた。
白い紙は灰皿の中で煌々と燃えながら踊った。
近藤と土方はそれを黙って見つめていた。
黒く燃え尽きて、灰になるまで。
9月最終週、富士スピードウェイサーキット。
まもなくすべてを飲み込む運命の戦いが始まろうとしていた。