久遠の空 二次小説 サーキットの狼たち 1


 今年最初のレースを沖田・斎藤のワンツーフィニッシュで飾り、やってきた第2戦はグランプリ中 最も赤道に近い国であった。

 前回のレース終了から数日で機材を積み込み、年間平均気温が20℃代後半の国に降り立った Mibroレーシングの面々。
 「あっつー・・・」
 テストドライバーの神谷セイは、絶え間なく流れる汗を首から下げたタオルで押さえながら呟いた。
 「ホント暑いですねぇ。去年は曇りがちだったからそんなでもなかったような気がしますけど」
 そう言いながら正規ドライバーの沖田総司は手荷物を床に置いた。
 「湿度が高いから不快指数も高かろう。神谷、日焼け止めは塗ったのか」
 ほとんど汗を見せずに、同じく正規ドライバーの斎藤一が言う。
 いけない、とセイは慌てて日焼け止めをカバンから取り出し、肌が露出している部分に塗った。

 「ダラダラしてんじゃねぇぞ、とっとと歩け」
 後ろから土方が声をかける。
 「土方ディレクター、そのサングラス・・・ガラ悪いです・・・」
 日差しが強いのでサングラスをしているメンバーが多いのだが、土方のサングラスは両端がグッと 上がっていて、非常にキツイ印象を与えている。
 「うるせぇ、余計な世話だ。行こうぜ近藤さん」
 セイの言葉にムッとしながら、土方は横に立つチーム監督の近藤勇を促した。
 「確かに神谷君の言うとおりだね。もう少しソフトなやつのほうがいいんじゃないか?トシ」
 苦笑しながら近藤が帽子をかぶって歩いていった。
 セイの頭の中には、“高温多湿の熱帯雨林気候”という、学校で習って以来の単語が通り過ぎて いった。



 それからの2週間は非常に慌ただしく過ぎていった。
 ドライバーたちは他のチームとの3日間の合同テストに参加し、灼熱の地でのデータ採取と グランプリに向けてのマシン調整に勤しんだ。そして、日本まで比較的近いので一度帰国し、 日本にあるクロタニのファクトリーでの調整や新パーツの開発、データ収集、プロモーション活動に インタビュー、スポンサー周りと分刻みのスケジュールを過ごした。
 開幕早々の優勝に日本のメディアやファンは沸きに沸いていて、近藤たちはチームの仕事の手ごたえ を充分に感じることができた。



 そして、グランプリの行われる前週、Mibroレーシングの全員は再び現地に結集した。
 最初に入国した時と全く変わらない、このうだるような暑さに慣れなければ、今グランプリの総周回数 56周―310.408kmを戦い抜く事は出来ない。

 ホテル内の会場をひとつ借り、ミーティングが行われた。
 「毎年のことだが、各自体調管理には充分気をつけて欲しい。生水は特に禁止だ。必ずミネラル ウォーターを・・・」
 監督である近藤から、まず始めにフィジカル関係の注意が言い渡された。
 日本の夏も暑いが、まったく質の違う暑さに加え、仕事を確実にこなさなければならない。
 チーム結成から3年を過ぎ、少しずつ人員が増えてきたとは言えども、現地で働くスタッフの人数には 限りがある。ひとりひとりが重大な役割を担っているので倒れるわけにはいかない。

 「体調面に関しては以上だ。続けて土方君から、レースまでの詳細日程の確認がある」
 近藤は場を土方に譲って自分の椅子に腰を降ろした。
 「事前に席に配っておいた日程表を見てもらいたい。まず今日はこのミーティングと、夕方から 機材の確認のためサーキットへ入り・・・」
 土方が立ち上がり、自分のパソコンから会場の前に吊るされたスクリーンへ日程表を映し出して 説明を始めた。沖田も斎藤もセイも、皆同じように手元に配られている日程表と照らし合わせ、 細かい指示を書き込んでいった。


 「それと、今回から金曜日のフリー走行に神谷を使うから全員そのつもりで」
 以上、と、事も無げに土方は言ってパソコンを閉じた。
 他の参加者たちも、じゃあメシ食って一休みしたらサーキット行きだななどと、隣の者と話している。
 セイ以外は。

 「ディ、ディレクター!」
 セイは思わず立ち上がって手を上げた。
 「なんだ神谷」
 「わ、私ですか?」
 「そう言ったはずだが?」
 土方は面倒くさそうに溜息をつき、セイに目をやった。
 「でも私・・・まだそんな」
 まったく心の準備が出来ていないところへ突然の起用宣言。セイが取り乱すのも無理はなかった。
 セイとは反対に、沖田も斎藤も平然としている。

 まだ信じられないと言わんばかりに立ち尽くすセイに、近藤が口を開いた。
 「神谷君、君はいわゆるテストドライバーで、これまでは主にマシンの開発に従事してもらっていた。しかし 同時にサードドライバーでもあり、我がチームのグランプリレースに出走してもらう可能性も あるんだ。本選での起用はいつになるか知れないが、これからは総司と斎藤君が順調なうちにどんどん 経験を積んでいって欲しい」
 ゆっくりとセイの席に近藤は歩んでいった。そして右手をすっと差し出す。

 「頼んだぞ、神谷君」

 近藤は確信に満ち満ちた目でセイを見つめ、握手を求めた。

 セイは視線を彷徨わせ、隣に座る沖田と斎藤にそれを向けた。
 二人とも、目だけで軽く頷く。
 くるりと周りを見渡すと、皆がセイを同じ眼差しで見つめていた。
 その目に込められた意味を理解したセイの腹は決まった。

 「よろしくお願いします!」
 しっかりと近藤の手を握り締めてセイが勢いよく頭を下げると、会場全体から大きな拍手と歓声が 起こった―――



 金曜日、フリー走行当日。
 スタッフがピットに続々と集まり始めた。
 その片隅で、本日初走行の神谷セイがレーシングスーツ姿で座っていた。
 セイは前日の夜なかなか寝付けなかった。

 今までにも散々下位カテゴリーのレースに出ていたのに。
 いよいよモータースポーツの最高峰・F1の舞台に上がれるのに。

 フリー走行に参加するだけで、こんなにも緊張するなんて。


 「神谷君」
 近藤がセイを呼んだ。
 「は、ははい」
 セイは慌てて振り向き、あちこちから伸びているコードにけつまづきながら近藤の元へ行った。
 「お待たせしましたっっ」
 明らかに緊張している。
 近藤はセイの両肩を、その大きな手でがっしりと掴んだ。
 「大丈夫だ、神谷君。普段どおり走ればいいんだ」
 「監督・・・」
 「おいおい、たかがフリー走行でそんなにビビッてるんじゃ、とても本選は走らせらんねぇな」
 近藤の隣で土方がフンと笑った。
 土方の言う事は最もだったが、セイは少しムッとした。
 「だって初めて公式で走るんですよ?土方ディレクターは初走行のとき緊張しなかったんですか?」
 そう、土方だって昔はレーサーとして走っていたのだから、同じく初めてコースに出る瞬間があった はすだ。
 「お生憎様だな。俺はビビリ屋じゃねぇんだ」
 ガラの悪いサングラスを少しだけ下げ、土方はにやりと笑った。

 「まぁまぁ、ふたりともその辺で」
 沖田と斎藤がピットに入ってきた。
 セイと同じく、チームカラーである白と浅葱色の2色で彩られたレーシングスーツを纏っている。
 「沖田先輩ぃ、斎藤先輩ぃ」
 セイが情けない声を出してふたりを見上げた。
 「ほら、神谷さんもいつまでグズグズ言ってるんです。ジッパーきちんと上げて」
 沖田はセイを立たせ、顎まであるスーツのジッパーをきっちりと上げた。
 「よし、男前」
 「・・・ありがとうございます」
 オトコというところはまあ置いといて、総司に声をかけられてセイは少し元気を取り戻した。

 「揃ったな。総司と神谷はマシンに乗り込め。斎藤はテレメトリーで神谷のチェックだ」
 「はい」
 3人とも返事をし、土方の指示に従った。


 それぞれが持ち場に着くのを目で確認していると、隣のピットから声がした。

 「土方くぅん」

 呼んだのは、伊東甲子太郎だった。
 伊東はMibroレーシングのライバル、チームEdgeの監督である。
 以前はクロタニに属していたが、己のチームを立ち上げるために袂を分かったのである。
 ちなみに、土方にとても“入れ込んでいる”らしい。

 「伊東さん、どうも」
 土方は心底嫌そうな様子も隠さずに、目を眇めて言った。
 「いやぁ、前回は優勝おめでとう。なかなか会う機会がなかったから今更だけど言わせてもらうよ。 相変わらず君の戦略は見事だね」
 伊東はまったく意に介さず土方に話し掛ける。
 「アリガトウゴザイマス」
 「ところでそこに斎藤君がいるみたいだけど、クルマに乗っているのは・・・」
 「お察しの通りで」
 「神谷くんが?」
 へぇ、と伊東は驚いたように言った。
 「あいつだってうちのドライバーなんでね、いざという時使い物にならなきゃ困るんですよ」
 「ふふ、君らしいね。君のそういうところが好」
 「弟君が難儀しているようですが、よろしいんですか?」
 土方が伊東の言葉をさえぎって、伊東のチームのピットを指差した。

 見ると、並んだ2台のクルマの片方に人がたむろしている。
 その中心にはコックピットがあり何かが起きている。
 「もっとそっちひっぱって!」
 「い、痛い!もっとそっと」
 コックピットに人がはまって出られなくなっていた。
 伊東の弟、三木三郎である。
 腕は確かなのだが、レースの世界で成功するに従って酒食に溺れるようになり、体型を維持できなくなって きているのだ。

 「ああ、もう!ぼくと土方君の至福のひとときを・・・!失礼、土方君」
 伊東は軽く頭を下げて土方に挨拶をすると、「まったくお前という奴は!」と怒りをあらわにして弟のもと へ歩いていった。
 代わりに土方の傍に寄ってきた者がいた。
 Edgeのもうひとりのドライバー、藤堂平助。
 彼もまた、伊東の離脱に伴いMibroを離れていったメンバーである。
 「土方さん、こんにちわ。神谷が出るってホント?」
 「ああ」
 沖田や斎藤と同い年である藤堂は、その才能もまたふたりに勝るとも劣らないものを持っている。
 土方は藤堂の離脱を認めたくはなかった。
 「初走行だから心配だけどね、大丈夫だと思うよ」
 藤堂は明るく笑った。
 「・・・何事も経験だ」
 土方も先ほどよりは表情を崩した。
 「じゃあ俺もスタンバイするから。じゃあね」
 藤堂はさっと手を上げて去っていった。



 午前中のフリー走行が始まる。
 「監督、ディレクター、ちょっと」
 斎藤が椅子を引いて立ち上がった。
 「どうした?斎藤君」
 近藤が先に声をかけた。
 「沖田さんのテレメトリーのモニタを見てください」
 「どれ」
 テレメトリーとは、マシンやスーツに着けている極小の端末により、走行中のマシンのあらゆる状態や ドライバーの体調の変化を瞬時にデータ化して見られるシステムである。ピットにそのモニタがあり、 チームは逐一入ってくる情報を元に戦略を組み立て、修正し、戦うのだ。
 「監督、沖田はんの体温が少し高めですわ」
 斎藤の代わりに答えたのは、隣に座る山崎烝。
 Mibroの情報収集・解析は彼によって行なわれている。
 「暑い環境ですし、ほんの僅かですが・・・」
 山崎は若干渋い顔をした。
 「わかった。引き続き注意していてくれ。神谷君のほうはどうだ」
 近藤は承知するとセイの様子もチェックした。
 「めちゃくちゃ緊張してますわ。見てください、すでにこの心拍数」
 近藤の問いに山崎は苦笑いしてモニタを指差した。
 F1ドライバーはレース中、一分間の平均心拍数が140回を超えるのだが、今のセイの心拍数はそれに向かって どんどん上昇している。

 『総司から出ろ。まず軽く流していけ』
 ヘルメットをかぶったドライバーたちに無線で呼びかけ、土方の号令でMibroのフリー走行が スタートした。
 ごく自然にピットから滑り出た沖田は、そのままピットレーンを出ると第1コーナーを順調に曲がっていった。
 『神谷、いけ』
 土方の声が耳元で聞こえ、セイは緊張の頂点に達した。
 テレメトリーからモニタへ入ってくる数値がそれを物語る。
 セイは顔を上げ、意を決してステアリングを握った。

 ゆっくりと静かにアクセルを踏み込む。
 その動きをタイヤは忠実に再現し、駆動する。
 神谷セイ、初めてのフォーミュラ1。

 久々の女性ドライバー誕生に、サーキットも大変盛り上がっている。
 金曜日のフリー走行、しかも午前中だというのに観客の数が明らかに多い。
 そしてマスコミも。特に日本から来たと思しき取材陣が随所に見られる。
 制限速度よりゆっくりとピットレーンを出たセイに、会場中から大きな拍手と歓声が送られ、 歓迎のチアホーンが暖かく鳴らされた。さらにカメラのフラッシュが無数に瞬く。
 だが、緊張と集中の狭間にいるセイには聞こえていないし、見えていない。

 目の前に第1コーナーが迫ってきた。
 セイの集中はピークに達する。
 ここをうまく曲がらなければ。
 セイは奥歯を強く噛みしめた。

 「あッ」
 ところが、セイは緊張のあまり目測を誤ってコーナーを曲がりきれなかった。
 ブレーキを踏み、ステアリングを切ったがもう遅かった。

 セイは見事にグラベルに突っ込んで行った。
 万が一のために砂利を敷き詰めてあるグラベルは、役目を充分に果たした。
 カラフルに着色された美しい砂利を蹴散らし、セイはマシンを止めた。
 先ほどの歓声は笑いに変わり、揶揄を含んだチアホーンがあちこちで鳴った。
 カメラのフラッシュがまた無数に瞬いた。
 マーシャルたちがマシンの周りに集まり、セイのマシンを押す。
 なんとかコースに押し出されたセイは、再び走り出した。

 『神谷・・・』
 コースに戻ってスピードを上げ始めたセイの無線に、土方の低い声が飛び込んできた。
 「す、すみませんディレクター!」
 セイも必死で謝る。
 『バカヤロウ!いきなりあそこで突っ込むヤツがあるか!マシンに傷ひとつつけてみろ、切腹だ!』
 「武士ですか!」
 ひぃ、と心の中で悲鳴をあげ、セイは強くステアリングを握った。






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