久遠の空 二次小説 サーキットの狼たち


 「今チェッカーフラッグを受けて、Mibroがラインを通過ー! 開幕戦から、開幕戦から日の丸が表彰台の一番高いところに上ったー!!!」
 アナウンサーが喉も枯れよと絶叫する。
 スタンド席からも自由席からも大きく振られる浅葱色の旗。
 大きな歓声と拍手に包まれて、Mibroレーシングのカーナンバー1、 沖田総司が、今グランプリ開幕戦のフィニッシュを鮮やかに決めた――

 「沖田先輩、沖田先輩、おめでとうございます!」
 パルクフェルメに車両を止め、ヘルメットを脱いで観客に手を振る沖田に、セイは大声で言った。
 「あぁ神谷さん、ありがとうございます」
 ヘルメットを小脇に抱え、爽やかに笑う沖田。
 そして二人は仕切り越しにがっちりと握手を交わした。

 レースが終わった今、パルクフェルメ(車両保管所)は車両を止める選手以外は立ち入り禁止に なっている。
 優勝したチームメイトを祝おうとMibroのスタッフが押しかける中、セイはがんばってその先頭 に体をねじ込み、境界線である腰までしかないフェンスに後ろから押し付けられながら沖田に声をかけ たのである。

 「すごかったです、あの1コーナーへの飛び込み!も〜見てるこっちがドキドキしちゃいましたよ!」
 周りの歓声の大きさに負けないように、セイは沖田のほうに出来るだけ身を乗り出して大きな声で 話し掛けた。
 「ええ、でも一瞬の隙を衝けてよかったです」
 聞こえやすいようにか、沖田がセイの耳に口元を近づけて答えた。

 その距離にどきりと胸が高鳴ったセイだが、沖田の隣にやってきた人物に肩を叩かれてそちらを 振り向いた。
 「え、・・・ってうわ!」
 Mibroレーシングのもう1人のドライバー、斎藤一だった。
 ヘルメットの下に着用する目出し帽をかぶったままだったので、セイは一瞬誰かと思ってしまった。
 「あ、斎藤先輩。お疲れ様でした!もー、目出し帽かぶったまま近づかないで下さいよ〜」
 「何を言う、これにはバラクラバ帽という歴とした名前がだな」
 目出し帽―正式名称バラクラバ帽―を脱いだ斎藤は、丁寧にそれをたたんで、ヘルメットの内側に 押し込んだ。
 沖田はセイの手を離し、今度は斎藤と互いの健闘を称えあうように固く握手を交わした。
   「斎藤先輩もすごかったです!後続のクルマを押さえてるの、本当に見てて感動しました!」
 優勝の興奮冷めやらぬ様子でセイは斎藤に言った。
 「いや、あれは押さえていたのではなく沖田さんを抜かせなかっただけだ」
 斎藤はふいと横を向き、そっけなく返事をした。

 「バカヤロウ、いつまでそこで油売ってんだ!さっさと表彰式に行かねぇか!近藤さんはもうとっくに 上がってるぞ!」
 同じチームの上役である土方が怒鳴った。
 沖田と斎藤はそれに返事をすると、表彰式のために建物の中へと消えていった。




 世界の3大カーレースのひとつ、フォーミュラ1―――F1。
 MibroレーシングはそのF1に参加している日本のチームだ。

 3年程前に設立されたMibroレーシング。
 チーム監督は近藤勇。
 元F1レーサーで、日本人初の2位入賞を果たした凄腕のドライバーだった。
 堅実なテクニックと強靭な肉体、限界を知らぬ体力で所属チームを年間のコンストラクターズ優勝 (チーム年間総合優勝)へと導いた。
 参謀役とも言えるテクニカルディレクターは土方歳三。
 こちらも元F1レーサーで、知略派でならした猛者だった。
 現在もその頭脳を活かして、Mibroをリードしている。

 F1に参戦できるのはたった11チーム。
 さらに1チームから出走できるドライバーは2人だから、たった22人しかコースを走ることが出来ない。
 そのメンバーに選ばれるのは並大抵の才能と努力ではどうにもならない。
 限界を超えた才能と努力、莫大な開発費と千人以上の従業員を動員して、年間20回近い チャンピオンシップを戦うのだ。
 前年のMibroは、ここ数年なかったほどの優勝争いがもつれる混迷の中、最終戦でデッドヒート を演じ、僅差で日本産チーム初の年間総合優勝を手に入れたのである。

 Mibroの車を駆るのは、以下の2人のドライバーである。
 一人目は沖田総司。
 幼い頃からカートでその才能を発揮し、F1の登竜門であるF3、フォーミュラ・ニッポン、GP2 の優勝を総なめにし、すぐにMibroの前身であるクロタニというチームのテストドライバーに 抜擢され、マシンの開発に大きく貢献した。
 クロタニがMibroに名を変え、近藤がトップに就任すると、自身の後輩でも有るこの有望な青年 を正規ドライバーに昇格させたのだった。
 前年は正規ドライバーになって3年目、ほとんどのレースを完走し、何度もポイントを獲得。 最終戦ではチーム年間総合優勝を他チームと2ポイント差で争い、写真判定のゴールで日本人初の 優勝ドライバーになって、3位入賞の斎藤と共にMibroに優勝をもたらした。
 少々ヒラメ顔ではあるが、明るい性格と柔らかな物腰で大変人気の有るドライバーである。
 レーサーには、テレビ局のアナウンサーやファンからあだ名をつけられることが多く、沖田にも もれなくそれがついている。
 チームカラーと、走りの速さからついた彼のあだ名は「蒼き狼」である。

 二人目は斎藤一。
 彼もカート出身で、数々のレースにおいて好成績を収め、Mibro設立の際にドライバーとして選ばれた。
 去年は正規のドライバーとして沖田と同じく3年目、ミスを犯さず確実に7位以内の入賞を 果たし、実績を積み上げた。
 寡黙なタイプでインタビューや記者会見でも口数が少なく、決して挙動を乱さない冷静なドライビング テクニックとあいまって、ついたあだ名が「ラストサムライ」。
 沖田が女性や子供からの人気が高いのに対し、こちらは男性ファンが多い。

 そして、テストドライバー。
 名前は神谷セイ。
 なんと女性である。
 F1では近年、男性ばかりが参加しているが、過去には6人の女性 ドライバーがいる。最後にレースに登場したのは1992年、結果は予選落ちであった。
 そこから長い年月が過ぎ、昨年末、Mibroの次年度の新体制発表の際、噂として囁かれていた 日本人女性ドライバーが誕生した。レースで主戦力として参加する2人のうちにこそ入らなかったが、 その2人が何らかの理由でレースに出場できなければ、彼女が代わりにステアリングを握る事となる。

 セイもカートから履歴をスタートさせた。彼女の兄がカートレーサーで、一緒に練習を見に行く内に 自らもカートを乗り回すようになったのである。
 フォーミュラ・ニッポンでじっくりと腕を磨いたセイはGP2にも参戦、見事にスーパーライセンス を獲得した。そして近藤と土方に見出されてMibroの一員となったのであった。

 セイの参加で、長く男だけの戦いの場であったF1に、久しぶりに吹く女性の風。
 ただでさえF1至上初の優勝を遂げた日本の国産チーム、加えて日本人初の優勝ドライバー在籍 チームということで注目されているのに、世界では久方ぶりの、そして日本人ではこれまた初の女性 ドライバーということで、特に日本国内では熱狂的ともいえる人気振りである。



 表彰式が始まった。
 日章旗が空高く掲げられ、君が代がレースの余韻の残る青い空に吸い込まれてゆく。
 Mibroレーシングのオーナー松平容保と、チーム監督の近藤に賜杯が手渡された。

 「神谷」
 土方が、隣で表彰台を見上げるセイに話し掛けた。
 「いつかはお前もあそこに立つんだぞ」
 ポツリとつぶやくように、土方は言った。

 ポディウムの一番高いところで優勝トロフィーを受け取る沖田を見上げていたセイは、その土方の言葉に 目を丸くした。
 斎藤にも準優勝のトロフィーが贈られる。
 私もいつか、あのポディウムに――
 「この瞬間を胸に焼き付けとけ、そして・・・」
 土方はセイの方に向き直った。
 その視線をまっすぐに受け止めるセイ。
 「クルマが帰ってきたら、磨いておけよ」
 「はぁ?!」

 もっと別の言葉をかけられると思っていたセイは、思わず間抜けな声を出してしまった。
 頭上では表彰式に出ている面々の写真が撮影されている。
 「車両検査が終わってパルクフェルメから戻ってきたら、ピッカピカに磨いとけ」
 新人の大事な仕事だからなと言って鼻で笑った土方は、人垣を掻き分けて消えていってしまった。
 その後姿を目で追っていたセイは、表彰台で始まったシャンパンファイトの飛沫を受けてはっと し、再びチームメイトの眩しい姿を見上げた。



 無事に試合後の車両検査をパスした2台の車両がガレージに戻されてきた。
 メカニックの面々が様々な作業を終え、セイはひとりで車を磨いている。

 剥き出しのホイール。
 満足に手足を伸ばす事もできないコックピット。
 風の力を利用するために付けられている前後のウィング。
 エンジンを覆う流線型のボディ。

 F1のクルマは、通常のクルマとは目的も違うがその美しさもまた違う。
 世界で一番早く走るためには、重量も華美な装飾も頭を覆う板も必要ない。

 まず沖田の車から磨きながら、セイは思い出す。
 初めは、単なる憧れだった。
 先にカートを始めていた兄のクルマにお遊びで乗せてもらったのがきっかけだった。
 その時に感じたすべてが始まりだった。
 レーシングスーツを鋭く滑っていく風が、ヘルメットのバイザー越し見える狭い風景が、 ステアリングを通じて伝わる振動が、彼女を虜にしてしまったのである。

 兄の後を必死で追いかけ、女だてらにカートを乗り回し、その楽しさを満喫しているところへ 思いがけない事故が起きた。

 兄・祐馬がレース中に亡くなったのである。

 まだ肌寒い3月のある日曜日のことだった。
 兄の参戦するカートの開幕戦でそれは起こった。
 祐馬の前を走っていた一台の車がスピンし、祐馬を含む計5台を巻き込む悲惨な事故だった。
 他のレーサーは軽傷で済んだが祐馬は打ち所が悪く、搬送先の病院で4時間後に息を引き取った。

 「う」
 あの事故が無ければ、ここでこうしてクルマを磨いているのは兄だったかもしれない。
 あるいは、クルマで疾走しているのは兄だったかもしれない。
 病院で白い布をかぶせられて横たわる兄の姿が今でも鮮明に蘇る。
 セイは悲しくてたまらなくなった。


 「・・・神谷さん?」
 後ろから突然声が聞こえ、セイは泣き顔のまま振り返った。
 「お、きた先輩」
 沖田だった。
 「どう、したん、です、か」
 セイは慌てて涙を拭った。
 「神谷さんこそ・・・こんなところでなんで」
 「あ、いえ、土方ディレクターにクルマ磨いておくように言われたんで」
 泣いてるんですか、と続けようとした沖田の言葉を遮ってセイは言った。
 「インタビューとか、あったんじゃないですか?」
 無理に笑顔を作ってセイが続けた。
 「インタビュー責めでもう疲れちゃったから、ガレージに隠れてやりすごそうかと思って」
 沖田もセイに合わせるように、ぎこちなく笑った。

 セイの淹れたコーヒーを飲みながら、灯りを少し落としたガレージでふたり並んで座った。
 「えっと、沖田先輩、本当におめでとうございます。去年の最終レースに続けての優勝なんて私」
 「あの・・・神谷さん」
 今度はセイの話を沖田が遮った。
 「さっき、どうして泣いてたんですか?」
 もし聞いてよければと加えて沖田は話し掛けた。

 「・・・」
 沖田はセイを見つめていたが、セイの視線はコーヒーに落とされたまま上を向こうとしない。
 「すみません、立ち入ったことでしたよね」
 もう一度、すみませんと言って沖田は頭を掻いた。
 「・・・兄の事を、思い出して」
 ぽつりとセイはつぶやいた。
 「神谷さんのお兄さん?祐馬さんでしたよね」
 頭から手を離し、沖田は言った。
 あの事故の時、沖田も同じレースに出走していたのだ。沖田も巻き込まれたうちの一台で、大破した 車の部品に挟まれて動けなくなった祐馬を、マーシャルたちと一緒に救出したのだった。
 「・・・祐馬さんも才能あるドライバーでした。惜しい人を亡くしたと思います」
 祐馬のほうが年上だったが、早熟の天才ドライバーと謳われる沖田と同じレースを走っていた。
 「もしかしたら、今ここにこうしているのは兄だったかもしれないって・・・思うと・・・」
 堪えていた涙が再びセイの頬に流れていく。
 コーヒーの水面がセイの震えで波紋を描いた。

 ぐい、と沖田はセイを引き寄せた。
 セイは急に沖田の胸元に引き寄せられて驚いた。
 「沖田先輩・・・?」
 「泣きなさい、見やしないから」
 沖田はセイの顔面ををますます胸元に押し付けた。
 コース上で事故は付き物だ。
 レーサーである沖田は、事故が起こる直前の一瞬を何度も経験している。
 そして、同じ時期に走っていた仲間が重軽傷を負うのも、命を落とすのも知っていた。
 家族が、親友が、恋人が瀕死でベッドに横たわるのを見る辛さも、魂の消えた肉体に縋って声を あげるのも。
 同じチームである彼女が今その思いを懸命に閉じ込めようとするのを目の前にして、自分がして やれることと言ったらこれぐらいだった。
 セイは数秒逡巡したが、やがて静かに泣き始めた。


 「・・・すみませんでした」
 しばし涙を流した後、セイはそっと沖田から離れた。立ち上がってガレージの隅に置いてある 箱ティッシュを使う。
 沖田はコーヒーで口の中を僅かに湿らせながら、セイが再び座るのを待った。
 カップの中のコーヒーがいくらも減らないうちにセイは足早に戻ってきて、沖田の横に座った。
 「あなたは、お兄さんと同じ危険な世界にいます。それはわかってますよね」
 沖田は下を向いたままのセイに語りかけた。
 「・・・はい」
 「女性の身で、そんな危ない事をするのはお止めなさい」
 「・・・!いやです!」
 沖田の意見はもっともだった。
 いつ兄と同じ目に合うかもしれない恐ろしい世界。
 だが、大好きだった兄の代わりに自分がこの世界で走ろうと決意して今までやってきたのだ。
 それを今更辞める事など彼女の念頭にはまるっきりなかった。
 「私は、レーサーです!いつでも覚悟はできています!」
 沖田がセイを見ると、セイは顔を上げて真剣な表情で自分を見つめていた。
 「兄と同じ世界で戦いたいんです!だから・・・だから辞めろなんて言わないで下さい!」
 薄明かりに照らされて、必死になって己の気持ちを語るセイ。
 沖田は彼女の思いに胸を衝かれたような気になった。

 「・・・仕方ないですねぇ」
 沖田は苦笑いを浮かべ、セイの頭に手を置いた。
 「いいですか、本選はテストや開発とは違います。あなたもそのうち体験するでしょうが、 まったく次元の違う世界です。心しておきなさい」
 こちらもまた、真剣な顔でセイに申し渡した。
 「はい!」
 セイはにこりと笑った。
 くるくると変わる彼女の表情。
 沖田は面白いなぁと心の中で呟いた。

 「・・・おい沖田さん」
 いつのまにか、ガレージの入り口に斎藤が立っていた。
 「あ、斎藤さん。お疲れ様です」
 沖田が立ち上がり、斎藤の方を向く。
 「神谷もそこにいるのか」
 斎藤は沖田の横に目をやった。
 「ええ、いますよ。どうしたんですか?斎藤さんもインタビューから逃げてここに?」
 「アンタと一緒にするな。祝勝会の準備が整ったからアンタたちを呼んでこいと言われただけだ」
 斎藤は無表情で言い放った。
 「・・・ですって。神谷さん、行きましょう」
 沖田は、まだ座ったままのセイに手を差し伸べた。
 「はい」
 セイはその手を取って立ち上がった。

 さりげなくセイひとりを先に歩かせ、斎藤は沖田に聞いた。
 「何かあったのか」
 「・・・斎藤さんは鋭いなぁ。そこがカッコイイんですけど」
 いたずらっぽく沖田は笑って言った。
 ガレージでの話を簡単にまとめて斎藤に話す。
 「祐馬か・・・」
 「確か斎藤さんと同じスクールでしたよね、祐馬さん」
 斎藤と祐馬、そしてセイは同じレーシングスクールの出身だった。
 あの事故の時に優勝したのは、やはり同じレースに参加していた斎藤だった。
 斎藤はほんの数秒先でトップを走っていたため、後ろで起きた事故には巻き込まれなかった。 そして、かろうじて中止にならなかったレースに勝利する事で同輩への弔いにしたつもりだった。
 「その妹がこうして同じ世界で上り詰めてくるとはな」
 皮肉なものだ、と斎藤は呟いた。

 沖田と斎藤は、先を歩くセイの姿に目をやった。
 華奢なボディライン。
 小さな背中。
 細い首。
 どれもが命を賭けて戦うのには向いていなさそうなのに、彼女は並み居る男子たちを押しのけて この世界にやってきた。

 「おふたりとも早くー!祝勝会、始まっちゃいますよ!」
 数メートル先でセイが振り向いて手を振った。
 沖田と斎藤は顔を見合わせて、目元だけで笑うと、セイの元へ早足で駆けていった。


 日本人女性初のF1女性ドライバー・神谷セイがサーキットでステアリングを握る。
 限りなく夢に近づいてきた彼女に、その現実はすぐそこに迫っていた。






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