雪国 前編夜風はすでに冷たく、薄手のコートが必要な季節になった。 土方は仕事を終え、タイムカードを押して会社の回転ドアをくぐる。 社長室に呼び出されて話し込み、いつもより少々遅い時間に退社してきたせいか、外の空気は冷え込んでいた。 土方はコートの襟を立てて駅まで歩いた。 そして駅に着くと電車に乗り、いくつか先の駅で降りる。 改札を出るとしばらく歩き、大通りから一本奥の道に入った。 その道沿いにある小さなビルの階段を、土方は降りていった。 靴音が静かな階段に響く。 土方が階段を降りきったところにある重たい鉄のドアを開けると、ドアベルが鳴った。 「いらっしゃい…って、よお、土方さん。久しぶり」 クリスタルガラスのグラスを磨きながら店のマスターが挨拶をした。 永倉新八。 土方とは同時期に近藤の道場で腕を競った仲で、今は脱サラしてこの小さなバーを経営している。 土方はコートを脱いでカウンターの一番奥の席に座った。 同時に土方の前に灰皿が置かれる。 土方は胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。 深く深く吸い込まれた煙が吐き出され、二人の他に誰もいない店内の隅を白く染める。 「何にする?」 永倉が聞いてきた。 「茶だ。俺が飲まねえの知ってるだろ」 とん、と土方が灰を落とす。 「じゃあ何で歩きで来た?」 くっと永倉は笑みを見せて問うた。 「どうして歩きだとわかる」 「もし車ならアンタは煙草を吸いながら来るだろう。そうしたらそんな、いかにも“前に吸ってから時間経ってます”みたいな※ 深ーい吸い方しねえんじゃないかと思ってさ。駅からこの店はそう遠かねえ、アンタなら歩いてくるはずだ」 「…ご明察」 永倉の言う通りだ。土方は降参とばかりに軽く煙草を持つ手を挙げた。 「何かあったのかい」 永倉はカウンターに肘をついて身を乗り出す。 「転勤だと」 土方は再び煙草を口元に持っていきながら言った。 「北海道にある函館支社の立て直しに加わることになった」 「へえ、そいつはめでてえな。ご栄転だ」 永倉はくつくつと笑った。 「…お前に頼みがある」 土方はまだ吸いかけの煙草を灰皿でもみ消すと、永倉の目を見た。 「斎藤たちにも声を掛けておくが、俺が居なくなったら近藤さんの道場を手伝ってやってくれねえか」 「道場をかい?」 「ああ、ガキの時間だけでいい」 永倉の問い返しに、土方は頷いた。 今、近藤の道場は多くの門下生を抱えている。 大人の部は近藤一人で見ることが出来ているが、子どもの稽古には手が必要で、土方がついている。 その土方が居なくなるとなれば、指導が行き届かなくなることは必至だ。 皆忙しいのはわかっているが、道場のOBであるこの永倉や斎藤、藤堂などに声を掛け、それぞれが※ ひと月に一回ずつでも手伝えば何とかなるのではないかと土方は思ったのだ。※ 子が生まれたばかりの原田も、言えばきっと間接的にでも関わってくれるだろう。 「仕事とか、転勤した後の独り身の自分の生活よりもよりもそっちが心配なのかい」 「うるせえ。不器用なかっちゃん一人じゃ、あんだけの人数を切り盛りできるたあ思えねえからだ」 「わかったよ。今まで散々アンタに甘えてきたもんな、道場については」 永倉も自分を育ててくれた道場を気にしていなかったわけではない。 ただ、自分は夜の仕事をしていて朝は弱いし、今までは土方が手伝ってくれていたことで無理して行く必要もなかった。 それに寄りかかっていたことは否定できない。 土方が道場を手伝えなくなるとなれば、永倉はもちろん喜んで代役を果たそうと思った。 「他にも頼んでいくことがあるんじゃないかい、土方さんよ」 永倉は無精髭を生やした口元を吊り上げた。 「何もねえ」 土方はもう一服しようと煙草の箱に手を伸ばす。 「…本当に?」 「ああ」 「絶対だな」 「ああ」 永倉は念を押すと土方に背を向け、慣れた手つきで何かを作り始めた。 カウンターの中で永倉が小気味よくシェイカーを振る。 その音を聞くとは無しに、小さな赤い火が点るのを眺めながら土方は己だけの思考に入り込んだ。 永倉が何を言いたのかはわかっている。 セイと総司のことだ。 道場の子どもたちは、稽古とはいえ竹刀で打っても厳しい言葉で注意してもついてくる。 あの二人は特に、だ。 普段はおじさまおじさまと寄ってきても、稽古中には必ず先生と呼び、注意されたとおりに出来ずに悔しさを滲ませながらも果敢に向かってくる。 あの二人が幼い頃から同じ時間を過ごす事が多かったから、転勤後のことが気にならないと言えば嘘になる。 が、もう決まったことだ。 それに自分がいようといまいと、子どもたちは勝手に成長していくだろう。 他人である自分が心配することなど何もない。 何もないのだ。 土方が結論に達すると同時に、目の前にカクテルグラスが置かれた。 薄く白濁するアルコールの中に碧いミント・チェリーが静かに佇んでいる。 グラスの縁にはグラニュー糖が、まるで雪の結晶のように付着していた。 「“雪国”をどうぞ。こいつは俺のおごりだ」 永倉がにやりと笑って言う。 入り口のベルが鳴り、来客を告げた。 「いらっしゃい」 永倉はマスターの顔に戻って客を出迎えた。 「帰る時は言ってくれよな。タクシー呼んでやるから」 小声で土方にそう言うと、永倉は少し離れたカウンター席に座った二人組の元へと向かった。 土方はそちらをちらりとも見ず、グラスを見つめる。 自分が北海道へ向かうのは春先だ。 だが、雪景色を摸したカクテルを目の前に、早くも転勤後の自分を想像した。 グラスを持って口元に近づけると、アルコールの向こうに強めにきかせたライムジュースの香りがする。 土方は半分ほど中身を飲み干した。 久し振りに喉を通る、焼けるような感覚。 あまり好まないその感じと、転勤を告げる時に子どもたちがするであろう表情が重なる。 土方は僅かな残り半分を飲みながら、結局はストレートに言うしかないことを悟った。 土方の予想は的中する。 転勤が決定した週末の土曜、稽古後に近藤家で食事をしながら、土方はセイと総司に転勤を告げた。 総司もセイも、食事の手を止めて、顔を強ばらせた。 <12月の拍手文に続く> |