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雪国 後編



「聞け。俺は転勤することになった」
と土方は、食事の最中に言い放った。
「てんきん?」
セイはもぐもぐと口を動かしながら聞き返す。
「遠くに引っ越して仕事するってこった」
「えっ?」
土方の短い答えに、セイはフォークとナイフを取り落とした。



夕飯は恒子の提案で、子どもたちの大好きなハンバーグだった。
先に転勤の話を聞いていた恒子は、好きなものを食べながらだったら、子どもたちのショックも少しは和らぐだろうと思ったのだ。

何も知らないセイは、恒子に教わりながら粉ふき芋とミックスベジタブルのソテーを作った。
ハンバーグも全員分の成形をひとりで頑張った。
不格好であっても皆に、特に土方のおじさまに喜んでもらおうと思って、小さな手で懸命に形作った。
セイはべたべたになった手を洗いながら、まずくはねえなとそっぽを向く横顔を想像し、笑みを浮かべていた。
それなのに。



「来年の春からだがな。行き先は北海道だ。飛行機で―――」
「ほっかいどう…」
クラスメートが家族旅行で行ってきた大きな動物園がその地にあることを、セイは聞いて知っていた。
普段は見上げているだけのあの大きな鉄の塊に乗って行く、遠い遠い北海道。
そこに土方が行くというのか。

ほわほわと湯気を上げるハンバーグを前に。
今の今まで何もなく、楽しくおいしい食卓だったのに。
セイの心臓はどきんどきんと大きな音を立て、締め付けられるように苦しくなった。

「どうした、飯を食え」
土方が顔を上げて、セイと、その隣で同じように固まっている総司を促す。
「は、はい」
総司が先に気を取り直してハンバーグを切り始めた。
セイもこくりと頷いて、ナイフとフォークを手に取った。
が、その指が震えて、柔らかいはずのハンバーグに逃げられる。
見かねた恒子が横からセイの皿を取り、ハンバーグに切り目を入れた。


その後の食事は、大人たちだけが会話をしていた。
近藤と恒子が土方に北海道行きについて質問し、それに土方が答える。
行くのは先に述べたとおり来年の春で、年度切り替えと同時であること。
それまでに準備のため、何度か北海道へ行かねばならないこと。
そして、こちらにいつ戻って来るのかは決まっていないこと。
子どもたちは時々話を振られて、総司はかろうじて頷いたりしていたが、セイはまったく反応できなかった。


食事が終わり、土方は自宅に戻った。
「じゃあな」
と土方が近藤の家の玄関のドアを閉めると、見送りに立っていたセイはその場でうずくまり、声もなく泣き出してしまった。
近藤と恒子、そして総司がセイを囲む。
「セイね、がまんしたよ。泣いたらおじさま、ぜったいにこまった顔するから」
しゃくり上げながら、セイは恒子にしがみついた。
恒子もセイを包み込むように抱き締める。
近藤と総司はただ、セイの頭を撫で、手を握ってやった。

その夜、セイは恒子と同じ布団で眠らせてもらった。
恒子のぬくもりを感じながら、セイは目に盛り上がってくる涙をパジャマの袖で拭う。
頭がもわもわするほど泣き疲れて、やっと眠りに入った。



ちょうどセイの養父である松本が留守がちになり、セイはその日から毎晩近藤の家に泊まった。
朝は総司が迎えに来て登校し、学校が終わると総司と共に帰宅して、宿題を済ませてから自主的な稽古をしたり遊んだりする。
夕方に総司が帰ると、今度は恒子が買い物や洗濯物の片付け、夕飯の支度と、セイと一緒に行動した。

夜になると近藤と三人で食卓を囲んだ。
食事が終わって風呂から上がると、恒子の携帯を使って土方にメールを送った。
近藤の携帯でもいいのだが、近藤はあまり携帯を頻繁に見ないので、恒子の携帯を使うことにした。
セイは今まで、携帯のメールをまったく使ったことがない。
ひとつひとつ教わりながら、たどたどしい動きでやっと打った挨拶だけを送信した。
土方からはすぐに返事が来た。
風呂には入ったのか、宿題はしたのか、歯磨きはしたのか。
セイは真剣な顔つきで、歯磨きはまだと打つ。
それにまた土方は即座に、歯を磨いてから寝るようにと打って寄越した。
自分の打つ文字も土方から送ってくる文字も同じ形なのに、なぜか土方っぽい雰囲気が感じられ、セイは少し笑った。




数日後、道場ではクリスマスパーティーが開かれた。
今回から土方の呼びかけに応えて、斎藤や永倉、原田、藤堂といった面々が顔を出している。
稽古が終わた道場に椅子とテーブルを出し、前のほうに恒子が作った料理が並べられ、バイキング形式の食事が始まった。
セイは土方の皿に料理を盛りつけ、総司はケーキやフルーツを盛る。
土方を真ん中にしてその左右にセイと総司が座り、賑やかな食事が始まった。
二人は土方にやかましいほど話しかけた。
が、いつもならうるさいとため息をつく土方は何も言わなかった。


食事を済ませた原田が子どもたちを集め、永倉と共に腹に顔を描いてふざけた踊りを見せる。
子どもたちは大爆笑で、中にはマジックを持ってきて真似をし出す男の子が出てくるほどであった。
玩具会社勤務の藤堂は、仕事を活かしておもちゃの詰め合わせを作り、ビンゴ大会を催した。
ゲームソフトなどの高価なものは入っていなかったが、カードゲームのレアカードや会社の試作品、流行のアニメの文房具などを 旨く取り混ぜ、当たった子どもたちは歓声を上げていた。当たらなかった子どもたちにも、キャラクター付きの消しゴムが配られた。
斎藤は、土方が煙草を吸いに外へ出たところでセイと総司の側へ寄り、土方の代わりに話を聞いた。


道場内は稽古の時とは異なる笑い声や楽しげな明るい話し声に満ちる。
その影に別離の悲しみを精一杯押し隠しながら。







正月が過ぎ、梅が咲き、もっとも寒い季節が瞬く間に通り過ぎていった。
セイと総司は、土方と顔を合わせている時間を大事に過ごした。
何ヶ月も掛けて、ゆっくりと時を惜しむように。
少しずつ、心の準備をしていった。



そして3月の最後の日曜日。
冬の寒さはもう感じられない朝日の中を、皆は近藤の運転で空港に向かった。
窓の外にはところどころに八分咲きの桜が群れを成しており、セイと総司は去年見た上野公園の桜を思い出す。


車を預け、皆は空港のロビーに入った。
土方はスーツにコートを羽織り、スーツケースひとつだけを持っている。
荷物は土方が向こうに借りた社員寮へと出来る限り運び込まれているので、転勤など嘘のような身軽さだ。

土方がコートの内ポケットからチケットを取り出す。
そのコートの端を、セイがそっと握った。


「メール、なかなか早く打てるようになったじゃねえか」
土方の手がセイのおかっぱ頭をくしゃっと撫でる。
「…うん」
セイは小さく頷く。
「写メの送り方もわかってるな?」
「うん」
「よし」
セイが何度も頷き返すのを見ると、土方はしゃがみ込んだ。


土方はじっとセイの目を見つめる。
「行ってくるぞ」
セイは土方の言葉にまた首を振る。
その拍子にチケットがちらりと視界に入った。
そこには土方が到着する空港の名前が印刷されている。
それを見た途端、セイは土方に抱きついた。
総司も駆け寄ってきて、土方にしがみつく。



土方が乗る便の搭乗アナウンスがロビーに響き渡った。
土方は子どもたちの手を離して立ち上がる。
「じゃあな。近藤さん、送ってくれて助かったぜ」
ぽんぽんと二人の頭に手を置きながら土方が近藤に話しかける。
「ああ、頑張れよ」
近藤の目にもうっすらと光るものが見えた。
「恒子さん、留守中の部屋のことは頼みます」
「ええ、鍵は大事にお預かりするわ」
恒子もハンカチを目に当てながら答えた。土方が北海道に行っている間、時々窓を開けて換気をしたり、ポストに入る郵便物の処理など、 土方のマンションの管理は恒子が担当することになっているのだ。

「向こうに、ついたら、す、すぐにメールしてね」
涙と鼻水をハンカチでぐいぐい拭きながら、セイは土方を見上げた。
「ああ」
真っ赤になった鼻が子どもらしくて、土方はくっと笑う。
「総司、後は頼んだぞ」
土方は総司に視線を移し、セイの手を取って総司の手に握らせた。
「はいっ」
総司も顔を赤くして沸き上がるものを堪えていたが、土方に頼むと言われてそれを引っ込ませた。
土方はコートの裾を翻すと搭乗手続きの窓口に向かった。
そこからは一度も振り返らなかった。



セイたちは屋上の展望デッキに上がると、土方の乗る飛行機が飛び立つのを眺めた。
爆音が耳にうるさかったが、それよりも心が痛い。
行って欲しくはないが、無事に飛び立って欲しい。
様々な思いが全員の胸に去来する。

白い飛行機は勢いよく離陸し、青い青い空に向かって飛び立っていった。
セイと総司は機体が点になって見えなくなるまで手を振り続けた。



数時間後、土方から恒子の携帯にメールが入った。
馬鹿みたいにいつまでも手を振ってんじゃねえと、それだけ打たれていた。
セイと総司は頭を付き合わせて返事を打つ。
“コートのポケット、見た?”と。
その返事を読んだ土方は、コートのポケットを探った。


ポケットの中には、去年の正月と同じようにメッセージカードが入っていた。
いつの間にと土方は思ったが、きっと最後に駆け寄った時に総司がポケットへと滑り込ませたのだろう。
そこには「おじさま 土方さん がんばってね」と、去年よりもしっかりした字で書かれていた。
土方はやれやれとため息をつくと、そのカードを財布の中にしまい込んだ。



土方の仕事は思ったよりも忙しく、函館支店の建て直しには随分と時間がかかった。
土方は東京に一時的にでも帰ってくることが出来ず、セイたちを函館へ遊びにに呼んでやることも出来ない。
しかしセイたちは携帯のメールや電話で頻繁に連絡を入れてきた。
小さな画面から伝わってくる、あるいは小さな穴から聞こえてくる土方の雰囲気は、いつもセイと総司の心の支えとなった。





月日が流れ、子どもたちは成長する。
恒子に携帯を借りながらの連絡も自分たち専用の携帯を持ってになった。
土方に寄せられるメールの内容は、セイと総司が互いを意識する内容に変わってきた。
遠い地にありながらも、まだまだ子どもたちにとって“土方のおじさま”は必要な存在らしい。



今日もおじさま、土方さんと語りかけられるメールが送られる。
土方はネクタイを緩めながら、顔文字や記号に彩られたメールを眺めるのであった。















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