久遠の空 拍手ありがとうございます。2008年8月拍手文

飛ばずとも



 暑い。
 黙っていても喋っていても、動いていても横になっていても汗が吹き出してくる。
 そんな中を近藤の妾宅まで金を届けさせる副長が憎い。
 清三郎は笠を被っているとは言え、じりじりと焦がすような日差しを浴びている。倒れたい気分だ。


 少しでも涼しい気持ちになりたくて川縁へ出た。
 道一本分の遠回りだがたいした距離ではない。
 逆に川沿いにある木陰に入れる分、楽かもしれなかった。

 川に沿って立ち並ぶ木。春は薄紅の花びらを咲かせていたはずだったがもうその面影はない。  濃い緑色の葉が重なり、地面に黒い影を成す。
 その下を清三郎は歩いた。
 陰になっている部分はだいぶ涼しく感じられ、流れ落ちる汗の速度が幾分弱まった。

 木の下の影には人がごろごろと転がっている。
 空気はむっとしているが、日差しが遮られた木陰に横たわっていれば川からの風もあり過ごしやすいかもしれない。
 自分も副長の使いでなければ少し休んで行きたいと思った。

 何本か前の木の陰に寝そべっている頭がゆらりと揺れた。
 何だか見覚えがあるようなその頭に、清三郎は首を傾げた。

 川原の下草の影にいたのは井上であった。
 風にさわさわと揺れる葉陰の下で、両手を頭の後ろで組んで横たわっている。
 巡察でない時は内向きの用を勤めていることが多く、細々とした用事も嫌な顔ひとつせずに片付けている。
 清三郎は井上がこんな風に体を伸ばしているところは見たことがなかった。

 「井上先生」
 清三郎は傾斜する土手を注意深く下りて行き、井上の横に立った。
 「・・・神谷」
 井上は清三郎に気がついたが、転がったまま目だけ動かした。
 「お珍しいですね。こんなところで」
 清三郎はそう言いながら井上の横に座る。
 「今日は局長が留守じゃし、やることもみんな片付いてしまったのでな」
 だからこうしているのだと井上は言った。
 「神谷はどうしたのだ、この暑い日中を。一番隊は非番ではなかったか?」
 井上が細い目を僅かに開いて問うと、清三郎は副長命令で使いの途中なのだと溜息混じりに言った。
 それはご苦労と井上は笑った。

 流れる水の音。
 川にざぶざぶと入って遊ぶ子どもたちの声。
 空を飛ぶ鳥。
 のどかな昼下がりである。


 清三郎と井上はしばらく黙っていた。
 ひゅうっと風が二人を撫でていく。
 誰かが凧を揚げ始めた。二人の視界で、白い紙で作られた四角い凧が高く舞い上がる。

 「・・・総司は」
 井上が突然口を開いた。
 そこに彼の名が出てきて、清三郎はぴくりと肩を揺らした。

 「風になりたいと言ったことがあった」
 それは清三郎も聞いたことがある。
 あれは確か池田屋へ突入する少し前のことだったと思う。
 童扱いされた苛立ちを解消するために、稽古がてら野原で剣を振り回していた時。
 総司がやって来て、空に高く上がる凧を眺めながらそう言ったのだ。
 自分は風になって近藤という凧を高く舞い上げるのだと。
 そのためには死んでも構わないのだと、笑顔で。
 純粋な総司の思いと、その心の中に自分をほんの少しでも置いて欲しい思いとが混ざり、泣きそうになったのだ。

 「あいつは風になれるだろう。望みのままに凧を・・・局長を舞い上げ、共に飛べるとワシは思う」
 こくりと清三郎は首を縦に振った。自分もそう思う。きっと総司は上昇する風になるだろうと。

 「じゃが、ワシは土がいい」
 「え・・・?」
 井上の言葉に、清三郎は顔をそちらへ向けた。
 「風も凧も高く飛ぶが、時には地に休むこともあるじゃろう。ワシはその時を待つ土になりたい」


 土に。
 清三郎は井上を見つめた。
 穏やかな表情だが口元は引き締められ、今言った言葉が真実であることを示している。
 原田や永倉のように、いつでも血気盛んで任務のためなら死をも厭わないことを表に出す人物ではない。
 が、もう長いこと近藤の側に仕え、総司の幼少期も知っている。  主や弟弟子の笑顔も涙も知り尽くした者ならではの台詞だった。

 清三郎は思った。
 きっと井上も、自分と同じく“飛ぶ”ことのない存在なのだろうと。
 が、井上は自らが飛べないと知り、それを受け入れ、自分の役割を心得ているのだ。

 無理に飛ぼうとせずとも、共にあることはできるのだ。
 必ずしも同じ存在でなくとも、一緒にそこにいることはできるのだ。


 清三郎は立てた膝の間に顔を埋めた。
 ここにも飛ばないものがいる。
 そしてそれを許してくれる。
 風と共に飛ぶことばかり考えていたけれど、飛ばないことを受け入れてくれるものがいる。


 「・・・そろそろ戻ったほうがいいのではないか?」
 井上がゆっくりとした口調で言った。
 「トシさんのお使いじゃろう?あまり遅いとどやされるぞ」
 清三郎の方を向いて、井上は笑った。
 「は、はい」
 清三郎は顔を上げて目元を拭った。
 「どうかしたのか?」
 「い、いえ、汗です。汗」

 「井上先生は?」
 「もう少しここにおる。夜の巡察までには戻る」
 井上は清三郎の問いに答えると、細い目を閉じた。
 「では」
 清三郎は立ち上がり、袴の埃をはたいた。
 「ああ、気をつけるんじゃぞ」
 井上は軽く手を振ると、再び頭の下に手を入れた。



 風と共に飛べずとも。
 風と共に生きることはできる。

 地面に影が濃く映る。
 清三郎は照りつける灼熱の下を、力強い足取りで歩いていった。













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