久遠の空 勸酒 〜花〜

勸酒 〜花〜



 表向きは新選組三番隊組長。
 裏の顔は会津藩隠密。
 それが斎藤一。




 少し冷える春の宵。
 いつも通り、密偵で得た情報を会津藩の京都守護職本陣へ報告した。
 不逞浪士の探索、新選組内の動向。
 重い荷物を降ろした途端、また新たな荷物を背負う。
 だがそれに不満のひとつもなく、斎藤は本陣を出た。

 門の前には桜が満開に咲き、日は落ちているものの暗くなりきっていない空に白く輝いている。
 ゆっくりとその下をくぐった。

 そう言えば、友人が桜を見に行こうと誘いをかけてきたことがあったな、と斎藤は思い出した。
 あれは確か祇園社の裏手にある―――

 斎藤は酒を買い求め、ぶらぶらと瓶を揺らしながら、屯所とは反対に歩を進め鴨川を渡った。




 着いた先は祇園社。
 その裏手には桜がごまんと咲いており、夜桜見物の人だかりで賑わっていた。
 だが斎藤の目指す場所はその外れ、人もまばらになった辺りの一本の桜の木だった。

 その木の下に立つ。
 以前友人と一緒にここに立ったときと同じように、花びらだけが可憐に舞い落ちるのでなく萼ごとぼとりと落ちる不吉な桜。
 だが彼は、この桜が無念に首を討たれた武士の涙のようだと言った。

 くるくると回りながら、桜特有の華やかさなど微塵も無くただ地面に落ちる。
 それが何度も繰り返される。
 斎藤はただただそれをひたすらに見つめていた。

 友人と――富永祐馬と交わした会話が頭に甦る。
 落花が武士の涙のようだと、自分は見て思った。
 同じく感じてくれる者がいた。

 人を斬り、江戸から京に逃げてきたあの頃。
 同じ気持ちを共有してくれる者などいるはずもない。
 そういった者を求める資格も、人殺しの自分には無いはずだった。

 だが、同じ物を見て、同じ気持ちを持つ者がいた。
 自分が求めたわけでもないのに。
 知らず心の中に広がった安堵。
 その時から友人と呼べるようになった他人。


 斎藤は懐から杯を二つ取り出し、まず一つに徳利から酒を注いだ。それを一度地面に置き、もう一つの杯にも酒を満たす。
 徳利を地面に置くと、両手に杯を持った。

 富永、久しぶりにお前に会いにきたぞ。
 ここに来ればお前に会える気がしてな。
 お前の“弟”は、俺の目の届くところで元気にやっている。
 俺が――いや、俺だけではないが――奴の側にいるから、お前は安心するがいい。

 斎藤は片手の杯の酒を飲み干した。
 そしてもう一方の杯の中身を木の根元に零そうと視線を落とした。

 杯に満たされた液体の表面には、舞い降りた桜が浮かんでいた。
 落ちた首のように赤い萼を見せて。
 水面はふるりと揺れて、花の白い輝きを受けている。


 斎藤は杯を静かに傾けた。
 遠くでざわめく人の声に紛れ、微かにその音は響いた。
 暗い闇に透明な酒が吸い込まれてゆく。
 芳香が辺りに漂い、その事実を伝えていた。


 ふと何かを感じて、斎藤は林の向こうに目を遣った。
 桜の花の白い影と木々の黒い闇の合間に何かがぼんやりと光って消えたのが見えた。

 「・・・富永?」

 そんなことがあるはずもないと頭では分かっていながらも、口から自然にその名が出てきた。
 姿形からではなく、あの魂は見紛うことなくあいつの―――
 根拠ではない、そんなものよりも確かな自分の確信から出た彼の名前だった。

 光はすぐに消え、斎藤もはっと現実に引き戻された。
 見つめる先にはもう何もなく、ただ上には桜が咲き、下は暗い木立のみがあった。

 杯二つを懐紙で拭って懐に収め、徳利を拾ってその首にかかる紐を持つ。
 かつての友が名づけた“無念桜”に背を向け、斎藤は歩き出した。




 桜を見物に来た者たちの一人が酔って声を上げている。笑い声が続く。
 斎藤はその喧騒に向かって歩いていった。
 そしてさりげなく騒ぎの輪の外ギリギリに徳利を落とした。

 斎藤は桜のない暗闇を選んで祇園社の門の方へと歩いていった。
 美しい桜も人の賑わいも遠のいていく。
 己が極めんとする修羅の道に必要の無いもの。
 一時の再会を胸に秘め、斎藤は屯所への道へと向かっていった。









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