久遠の空 勸酒 〜雪〜

勸酒 〜雪〜



 「里姉ちゃん、今夜はきっと降るで」
 正一が布団に潜り込みながら言った。
 「そうやなぁ、寒いもんなぁ」
 里は正一の隣に自分の布団を整えた。
 今宵は冷える。
 どんなに塞いでも入ってくる隙間風は、火鉢で温めたはずの手をひんやりと撫でる。
 先ほどちらりと見た夜空は水分を含んだ雲で灰色に染まっていた。
 これから正一が言う通り雪が降るに違いない。

 「正坊、ちゃんと首まで布団あげなあかんえ」
 里はやさしい手つきで正一の掛け布団を引き上げた。
 「ん」
 正一はくりくりとした目元まで布団に覆われ、くぐもった声で返事をした。
 「・・・里姉ちゃん、何かお話聞かして」
 里が布団に足を入れたところで、正一が小さくせがんだ。
 「え?」
 「お話」
 正一は目だけを布団の端から出して里を見上げた。
 「・・・そうやねぇ・・・」
 里は何の話にしようかと考えた。
 そしてふと思いついたのは・・・






 あれは先年の暮れ、降った初雪がまだ解けきらない頃。
 ようやく夜見世が始まったばかりの時間に山南が、まだ明里と名乗っていた彼女の元へと訪ねてきた。
 そしてひとしきり蜜のような時間を過ごした後に酒を飲んだ。

 山南は愛しい女との逢瀬に満足したのか、機嫌よく杯を重ねていった。
 明里は、その様子を見て微笑みながら山南の手元に徳利を傾ける。

 ふと山南は明里を見やった。
 視線が合い、明里は笑みを返す。
 山南も目元を和らげ、そして明里に自分の持つ杯を差し出した。

 「山南はん、うちは結構どす」
 酒を勧められたのだとわかり、明里はやんわりと断った。
 「たまには君も飲んだらどうだい」
 山南は杯をさらに明里へ近づけた。
 「センセ」
 あまり飲みたくはないが、好いている相手の誘いを断るのも気が引ける。明里は困ったように笑った。
 「ほら」
 その表情すらも愛らしいと山南は思った。
 明里は空中で掲げられたままの杯を、根負けしたと思いながら手に取った。

 山南の無骨な手で酒が注がれる。
 香りのある透明な液体が、朱に塗られた杯に満たされていった。

 「“君に勧む金屈卮・・・”」
 ぽつりと山南が呟いた。
 「え?」
 明里が聞き返す。

 「“君に勧む金屈卮 満酌辞するを須いず 花発いて風雨多し 人生別離足る”」
 低い声で山南は続けた。

 「山南はん、それは何やの?」
 明里が首を傾げた。
 「これは唐の詩人、于武陵の五言絶句でね」
 山南が徳利を盆の上に戻しながら言った。
 「本来ならば別れの詩なんだが、君が酒を断る姿を見て思い出したんだよ」
 別れという言葉を聞いて、明里の手が震え、杯の縁から酒がぽたりと零れ落ちた。

 「いやや、山南はん。別れなんて言わんといて」
 明里は今にも泣き出しそうな顔になった。
 山南は慌てて明里の手に自分のそれを重ねた。
 「すまない、深い意味はなかったんだよ」
 ただ思い出しただけなんだ、と山南は弁解した。
 「さあ、折角注いだのだから」
 そして己の手を添えた杯を明里の手ごと、彼女の口元へと近づけた。
 「・・・そうやね、新選組総長のお酌断ったらバチ当たるわ」
 山南の言葉が嘘でない事を感じ取った明里は笑顔に戻り、杯に口をつけた。

 明里はなみなみと注がれた酒をゆっくりと飲み干した。
 「そうそう山南はん、三国志の続き、聞かせておくれやす」
 しっとりと濡れた唇で艶然と微笑んで、明里は山南にねだった。
 「え、えーと、どこまで話したかな」
 そのあでやかな様にどきりとしながら山南は彼女に話した三国志の続きを思い出そうとした。
 「孔明はんが伏せったとこ」
 明里は山南の赤くなった様を見て口元を袖で隠して笑った―――






 「・・・三国志、知ってる?」
 里は正一に聞いた。
 「知らん」
 ぼそりと正一は答えた。
 「ほな三国志ににしよ。男はんなら知らんとね」
 里はふわりと笑いかけた。
 正一には薄闇の中でもそれが伝わり、こくりと頷いた。

 里は小さな声で語り始めた。
 山南に聞かされたときと同じ口調で。
 それは端から見れば、まるで山南が語っているかのように見えたかもしれない。

 正一はいつの間にか眠りに落ちていた。
 里がそれに気づいた頃、外は白い雪が降り始めた。



 山南はすでに鬼籍に入った。
 それは里も正一もいやというほど承知している。
 しかしこうして彼の遺していったものは、細々とではあるがあかりを灯している。

 里は今でも信じている。
 彼の魂の欠片は、まだこの世に存在しているのだ、と。









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