久遠の空 桜色の使者

桜色の使者



 「土方副長、お客様です」
 厳寒の箱館、蝦夷共和国。
 雪に埋もれる五稜郭の執務室で、土方歳三は火鉢に当たっていた。
 そこへ小姓の市村鉄之助が現れて来客を告げた。
 「副長じゃねえっつの」
 「いえ、私にとってはいつまでも土方副長は副長です」
 軽いやり取りが二人の間で交わされた。


 「で?客?」
 「はい、お名前を伺ってもおっしゃらないのですが、どうしても副長に取り次いで欲しいと」
 「断れ、胡散臭え」
 「でも…」
 ふいと顔を背ける土方に、市村は戸惑いを見せた。

 「あんまりにも…怖くて」
 ぼそりと市村が放った言葉は、戦場に生きるものとしては似つかわしくない物であった。
 戦場であろうと普段の生活であろうと、小姓である市村は常に土方の傍にいる。
 その間に一度も恐怖など口にしたことのない市村が、と土方は眉を動かした。

 「お前がそれほどまでに言うんなら通せ」
 土方は丸めた背中を伸ばし、フロックコートのボタンを確かめた。


 がちゃりとドアノブが回り、市村がドアを開ける。
 音もなく空気が揺らぎ、訪問者が入ってきた。

 周りの音を全て飲み込むかのような、静寂な佇まい。
 土方は、自分はそうは思わないものの、市村が怖いと形容したのを理解した。
 「鉄、茶を」
 土方は市村に指示を与え、市村は一礼をすると部屋を出て行った。



 「久しぶりだな、神谷」
 土方が客へと視線を投げかけ、名を呼んだ。



 頭には雪まみれの菅笠。
 黒い烏を模した隊服は全身が冷気の結晶で白く染まり、火鉢の熱で外よりは若干温かい空気がその身から雪をはらはらと落としている。
 セイは顎紐を解き、視線を下に向けたまま笠を下ろした。



 互いに言葉はない。
 重たい沈黙が部屋に満ちる。



 セイが腰から刀を抜き、黒く光る鞘を片手で持って前に差し出した。



 土方はそれを受け取り、柄を見遣った。
 「この鍔、柄糸…」
 端が欠け、傷がつき、ほころびがあちこちに見られる。
 使い込まれたそれには見覚えがありすぎるほどにあった。



 「総司の…」



 セイは微動だにしなかった。



 白い結晶がセイの体から延々と落ち続ける。



 「そうか、奴も逝っちまったのか…」



 セイは頷くこともなく、ただ、立ち尽くしていた。



 土方は左手で鞘を握った。



 「よくぞここまで届けてくれたな。礼を言う」



 そして、かの持ち主と同じ流派の動作で、ゆっくりと銀色の刀身を引き抜いた。



 「お前は俺が送ってやろう」


 かつんと音を立てて鞘が床に落ちる。
 土方は両手で柄を握ると、構えた。



 平青眼。
 かつてあの男が習得していた構えで。



 目の前に切っ先を突きつけられても、セイは髪の毛一筋ほども動かなかった。



 「どうした」
 土方が構えを緩めた。
 「向こうを向いてていいぞ」
 これは介錯だとでも言うように、土方は告げた。



 「…」
 セイがやっと口元を動かした。



 「後ろ傷は、武士の恥ですから!」
 その口元に浮かんだのは、笑み。



 「よくぞ言った!」
 土方も満足げに口の端を吊り上げ、柄を強く握り直した。



 次の瞬間、踏み込まれた床が高く鳴り、煌く刃が横に一閃した。
 斬られたセイの体が崩れる。
 その体は白い結晶となって散り、床に落ちると桃色の花びらに変わった。



 土方は鞘を拾い上げ、ひゅんと刀を振ると鞘に収めた。
 ちん、と鍔鳴りの音が小さく響いた。



 「…お前ら」
 そう呟く土方の声は掠れていた。



 土方は屈んで桜の花びらを一枚手に取った。
 その途端、土方の脳内に映像が流れ込んできた。


 総司が布団の中で息を引き取っていた。
 そして総司に付き添っていたセイも、短刀で胸を突いてその上に身を横たえていた。


 映像が切り替わった。
 総司がまだ死の床から苦しげな息でセイに頼んでいる。
 私は土方さんについていくことが出来なかった。
 だからせめて自分の愛刀を届けて欲しいと。
 それまであなたは死んではならないと。


 いいですね、と念を押し、総司は枕元の刀掛けを一瞥した。
 そして静かに目をつぶると、そのまま帰らぬ人となった。


 が、総司が息を引き取った後。
 セイは涙でぐしゃぐしゃになりながら呆然としていた。
 意識があるようには思えない手つきで、懐から木で出来た細長いものを引き出した。


 木の鞘。
 セイの細い指が鞘を握り、柄を握った。
 左右に分かれた木の間から、生を断ち切る銀の刀身がその身を現す。


 おきたせんせい。


 ぷつりと命が途切れる音が土方の耳に聞こえてきた。
 とさ、とセイが掛け布団の上に倒れ込んだ。


 その口元に浮かんでいるのは、笑み。


 「馬鹿野郎どもが…」
 土方は苦笑いをして肩を震わせた。





 ドアがノックされた。
 「土方副長、お茶です」
 市村が茶を持って戻ってきた。

 「あ、あれ?お客様は?」
 きょろきょろと市村は部屋の中を見渡した。

 「帰った」
 土方は立ち上がった。

 「え、もうですか?」
 「ああ、お前それ飲んでいいぞ」
 怪訝な顔をする市村に土方は、湯気がたつ茶を勧めた。

 「ありがとうございます…うわ、桜の花びら?何でこんなものが」
 市村は足元に散らばる花びらに驚いた。
 「後でいい、片付けておいてくれ」
 土方は指で摘んだ一片を、散り敷かれた他の花びらの上に落とした。

 市村が机の上に盆を置き、どうぞと茶を土方に差し出した。
 土方はそれを受け取り、一口飲んだ。

 「お前にこれやるよ」
 土方は茶碗を置くと、己の腰から刀を引き抜いて市村に押し付けた。
 「えっ、でもこれ副長の」
 「俺にはこれがある」
 土方は皮製の刀吊りに総司のそれを差し込んだ。
 「大事にしろよ」
 ふと土方は笑い、再び茶を手にした。



 何が何だかわからないといった風に、市村が土方を見つめる。
 土方はそれを無視して窓際に歩いていった。


 黒く分厚いカーテンを避けて窓の木枠に凭れ掛かり、土方はひとつ溜息をついた。
 ガラスが白く曇る。


 外は白の世界。
 風に乗って雪が激しく舞う。
 こんな中を、誰が無事に訪ねてくるというのだ。


 「鉄」
 「はい」
 「酒だ」
 「かしこまりました」


 再び一人きりになった土方は、じっと窓の外を見詰めた。



 これでもう、自分を訪れてくる使者は、いない。



 「副長、酒です」
 市村が戻ってきた。
 「ああ」
 土方は市村の方へと向かった。
 支えを失ったカーテンが、緩慢な動きで窓を覆う。



 土方は清めの酒を口にした。
 土方の胸の内に、ふたつの明かりがぽっと灯った。
 この明かりを消しはしない。
 戦って戦って戦って。
 あいつらの分まで、戦う。
 拳が自然と握り締められた。



 雪が収まり、土方の故郷では桜の花が咲く頃。
 「行くぞ!」
 土方はまだ雪の溶けきらない大地で再び戦端を開いた。


 その腰には、かつて新選組最強と謳われた男の形見が堂々とした光を放って差されていた。









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