久遠の空 恋の弔問

恋の弔問(死装束紅ノ乱 続き)



 ひっそりとした婚礼から幾日か立ったある日。
 春の柔らかな日差しに支えられるように、総司の体調はまずまずであった。
 無論まずまずと言っても、常人の健康状態とは比べてならないものではあるが。

 久しぶりに総司は縁側に出た。
 いつもは部屋の奥に臥していて、陽の当たる場所にはいない。
 太陽によって変化する気温すら、彼の肉体には酷なことだった。
 だが、今日はとても体調がいい。
 「寝てなきゃダメです!」
 と布団に押し込むセイに、少しだけだからと無理を言って縁側に出たのだ。

 「そろそろお布団に戻ってくださいね先生」
 セイが今夜の着替えを部屋に持ってくるついでに声をかけた。
 「もう少しだけ。だって桜がこんなにきれいなんだから」
 総司は庭にある桜の木を指差す。
 数日前から咲き始めたのは、病床から見えていた。
 暖かい日が続いたのも手伝って、あっと言う間に半分以上が咲いてしまったのである。
 
 セイは総司の横顔を見て思った。
 儚げな桜と今の総司は、同じ空気を纏っている、と。
 “花は桜木 人は武士”とはよく言ったものだ。
 両者の散る様を見立てた言葉。
 今、目の前にいるこの人と樹木の姿が重なって見える。
 まったく違和感無く。

 「この時期でしたよねぇ」
 ふいに総司が切り出した。
 「え?何がですか?」
 セイは問うた。
 「あなたと初めて、八幡様で会ったのは」
 総司はこちらに背を向けたまま答えた。
 「・・・そうですね」
 総司に言われ、セイはなるほどと思い笑った。
 「踏み台でしたよねぇ、私」
 「やだ沖田先生、まだそんなこと言って」
 セイは赤くなって口を尖らせた。

 そう、八幡様で初めて出会ったあの日。
 迷子になったセイを狛犬に登らせてやるために、総司は手助けしてやったの だった。
 今となっては、遠い昔のこと。
 時が巡り、京都で再会し、共に死線をくぐり抜けて夫婦になるとは、誰が予想し得ようか。
 運命とは実に数奇なものである。




 総司が桜に、セイが総司にぼんやりと目を向けていると、家の門の外に人影が見えた。
 セイはすばやくそれを察知して、腰の大刀を一瞥した。
 『いつ薩長のやつらが襲ってくるかわからねぇ。神谷、兄分として総司を頼む』
 総司をこの植木屋平五郎宅で療養させると決めたとき、土方はセイにそう言った。
 新選組副長としてではなく、身内として。
 その言葉に土方のどういった思いが隠されているのか、わからないセイではなかった。
 全身全霊をかけて、この人を守る。
 妻としても、副長の気持ちとしても。
 
 そっと、だが力強く愛刀の柄を握る。
 そして総司の前に出て、勢いよく鞘なりの音を響かせた。
 「そこの者、出て来い!とっくに気付いているぞ!」
 セイは刀の切っ先を門に向けて言い放った。
 
 
 「勇ましいな、神谷」
 門の影から人が出てきた。
 その声は。
 「・・・斎藤先生!」
 目深にかぶった菅笠を慣れた手つきで取り外し顔を表したのは、新選組三番隊組長・斎藤一だった。
 
 
 「斎藤先生、お久しぶりです!でも、どうしてここが?」
 刀身を鞘に収め、セイは聞いた。
 「松本法眼に伺った」
 斎藤は外を確かめると、庭に入ってきた。
 「え?法眼からですか?じゃあ・・・」
 総司が少し驚いたように口を開いた。
 それを見た斎藤は顔を顰めて、
 「じゃあ・・・ということは、本当なんだな、あの話は!」
 段々と語気を強め、言い終わるか終わらないかのうちに、総司に一足飛びに襲い掛かった。
 
 「ぐっ」
 「斎藤先生!」
 総司が畳に激しく打ち付けられる音がして、斎藤がなかば馬乗りになり、総司の着物の襟を掴んだ。
 「貴様・・・そのような運命だと知りながら、よくも神谷と夫婦の縁を結んだな!この先神谷を 置いていくことを知りながら何故!貴様と言う奴は!!」
 当然総司は避けることも抵抗することもできず、斎藤に襟を締め上げられるがままになっていた。
 斎藤は相手が病人だと知っていてもお構いなしに総司をますます締め上げた。
 「斎藤先生、やめてください!やめて!」
 セイは涙ながらに斎藤に訴えて、彼の腕をどけようとすがった。
 斎藤はじろりと細い目でセイを見て、やっと総司の襟を解放した。
 総司はセイの手を借りて力なく起き上がり、咽るのすらやっとの様子だった。


 総司は布団に寝かされ、茶が運ばれてきた。
 セイは気まずそうに茶を勧めたが、斎藤は一向に気にした雰囲気も無く茶を口に運んだ。
 「まったく斎藤先生ったら、ビックリするじゃないですか、いきなりあんなこと・・・」
 セイはお盆で顔を半分隠し、斎藤にごちた。
 「安心しろ、殺す気ならとっくに抜刀している」
 茶碗から唇を離し、斎藤は言った。
 そして茶碗を持った手を、きちんと正座をした膝まで下げた。
 「それに、いきなりなのはアンタたちのほうだ。先日、法眼が傷病者の手当にやってきたと思ったら アンタたちの媒酌人を勤めてきたと言うではないか。会津へ発とうと準備をしているところだったが、 本当か確かめたくてやって来た」
 そこまで言い、斎藤はふたたび茶椀に口をつけた。

 「会津・・・」
 その地名を聞いて、セイは表情を固くした。
 江戸では戦を食い止めることはできなかったのだと知った。
 「容保公を、お守りするんですね」
 総司がかすれた声で言った。
 「ああ」
 斎藤が短く答えた。
 「いつごろご出立なんですか?」
 セイが聞いた。
 「俺が戻ったらすぐに」
 斎藤がまた短く返答する。
 「そうですか・・・」
 セイは肩を落とした。
 同じ江戸にいればこそ、離れていると思っても心強かったのに。
 ついにそれすらもかなわなくなってしまうとは。


 しばし沈黙が訪れた。
 柔らかな春の陽は、いつのまにか傾いてきていた。
 「では、そろそろ」
 沈黙を破ったのは斎藤だった。
 立ち上がり、二本を腰に差す。
 「もう行かれるんですか?」
 セイが腰を浮かした。
 「ああ」
 「斎藤さん」
 襟を正す斎藤に、総司が声をかけた。
 「・・・ありがとう」
 総司は顔に薄く生気を上らせて微笑んだ。
 「達者でな」
 斎藤も、僅かながら笑顔を見せた。

 セイは斎藤を門の外へ見送った。
 それまで黙っていた二人だが、総司から見えないところまで歩いていくと、斎藤がくるりとセイに振り 向いた。
 「大変だな、アンタも」
 いつだって沖田さんに振り回されて、と斎藤は続けた。
 「そんなことありません。私の方が沖田先生にはお世話になりっぱなしで」
 セイは少し照れたように下を向いて、頭を掻いた。

 その中央に、月代はもうない。
 斎藤はそれを少しだけ寂しいと思った。
 共に武士として駆けてきたあの頃の証が消えてしまったような気がして。

 斎藤はその頭に手をやった。
 「沖田さんのことを守れるのはアンタしかいない。頑張れよ」
 まっすぐにセイの瞳を見つめて言った。
 「はい!」
 セイは嬉しそうに破顔した。


 もしかすると、もう、この笑顔とも。


 斎藤は己の胸の奥が軋む音を聞いた瞬間、セイを引き寄せていた。

 「斎藤先生?」
 セイが訝る声が聞こえたが、斎藤は構わずその体を抱きしめた。
 「どうしたんですか?もしかしてどこかお怪我でも?」
 声をかけても全く離そうとしない斎藤に、セイはますます疑問を持った。

 「神谷・・・」
 己の想いを、今こそ伝えてしまおうか。
 もう二度と会うことが叶わぬやもしれぬなら。


 しばしそうしていると斎藤はやっと身を離した。
 セイの顔を覗き込むと、まだ斎藤の気持ちを量っているような顔つきだった。

 「・・・すまん」
 そして懐を探り、セイの手に何かを握らせ、その手を自分の両の手で包み込んだ。
 「遅くなったが、祝儀と思って受け取ってくれ」
 握らされたのは紙包み。
 中に入っているのは、おそらく。
 「いけません、いただけません。斎藤先生こそ、これからいくらでも必要になるじゃないですか」
 セイは手を開こうとしたが、男の力で挟まれている。
 「俺の気持ちだ。何かうまいものでも食わせてやってくれ」
 斎藤は了承しろと言わんばかりにじっとセイの目を見つめた。
 セイも見つめ返すことで反抗しようとしたが、斎藤の眼力に負ける形となった。

 「ありがとうございます・・・」
 斎藤先生には敵わないです、とセイは言って苦笑いした。
 「それと」
 と、斎藤はまたひとつ紙包みを出してセイの手に押し込んだ。
 「これはアンタのためだけのものだ。もし沖田さんに万一のことがあったらこれを開けて使え」
 いいな、と斎藤はふたたび念を押した。
 今しがた斎藤に押し切られたセイに拒否権はなかった。

 「斎藤先生・・・」
 セイはまごついた様子で斎藤を見つめた。
 「どうしてこんな」
 「アンタが、祐馬の妹だからだ」
 セイが最後まで台詞を言う前に、斎藤は遮った。
 「孤独に生きようとした俺を、たったひとり引き上げてくれたのは祐馬だった。感謝している」
 兄の名前が出て、セイはぴくりと体を揺らした。
 「恩を返したくても、あいつはもういない。だがアンタがいる」
 だから代わりに受け取ってくれと斎藤は言外に含めて、もう一度セイの手を包んだ。
 
 斎藤はそれ以上何も言わずにセイの手を離し、すっと歩き去っていった。
 セイは斎藤の姿が見えなくなるまで門の外に立っていた。
 その手に、ふたつの紙包みを握り締めて。




 角を曲がり、セイの視線を背中に感じなくなると斎藤は大きく息を吐き出した。
 これでよかったと、ひとり頷いた。
 己の気持ちを伝えずとも。
 亡き彼女の兄も、引き合いに出すぐらいは許してくれるだろう。


 彼女の手の柔らかさをこの手に刻んだ。
 与えられる愛と与える愛、どちらを選ぶかはいつか己で決めたではないか。
 俺はその選択を胸に、どこまでも行こう。
 この命尽きるまで。



 斎藤は前に長く伸びる影を追うようにして歩き出す。
 紅に染まった太陽が、落ちようとしていた。









inserted by FC2 system