久遠の空 二次小説 サーキットの狼たち FINAL LAP 3


 一夜明け、黄金色に輝く太陽が霊峰を照らし出した。その光を受け、ゆっくりと富士山がその姿を闇から起こす。
 フォーミュラ1世界選手権第15戦・日本グランプリ。富士スピードウェイサーキット。
 決勝の、朝。



 セイたちは昨日と同様にヘリコプターでサーキット入りした。
 昨日はサーキットに姿を現さなかった斎藤だが、今日はいつものレーシングスーツ姿でなくチームウェアを着用してピットに入った。
 「おはようございます、斎藤先輩。昨日はどちらへ行かれてたんですか?」
 斎藤の代わりにレーシングスーツを身につけているのは神谷セイである。彼女は挨拶をしながら斎藤に近寄ってきた。
 斎藤はウェアのポケットをごそごそと探り、取り出した物をセイの手に乗せた。
 「これは・・・」
 自分の手に乗せられたそれを見て、セイは目を見開いた。
 「アンタの兄が持っていたお守りだ。奴のレーシングスーツに縫い付けてあった」
 擦り切れたり何かの染みがついたりとすっかり古ぼけたお守りは、兄が生前、初めてレースで走るときにセイが渡したお守りだった。
 練習でよく訪れていた関東のサーキットからの帰り道にある神社で、セイが小遣いを貯めてプレゼントした思い出の品。
 「斎藤先輩が・・・お持ちだったんですね・・・」
 セイはぐっとお守りを握り締めた。
 「それと」
 斎藤はセイの手を取り、古いお守りの上に真新しいお守りを乗せた。兄の物と同じ神社の名前が、色違いの袋に刺繍してある。
 「これはアンタのお守りだ」
 「まさか斎藤先輩、昨日これを買いにわざわざ・・・?」
 はっとしてセイは顔を上げた。斎藤は富士とは逆の方向に位置するその神社まで足を運んだらしい。
 斎藤は何も言わずにセイの元を離れ、テレメトリーモニターの前に腰を降ろした。

 セイは手にしたお守りを見つめた。
 兄も走る事を夢見ていたF1の舞台。
 セイは首元のジッパーを下げると、内ポケットにお守りをしまった。そしてジッパーを戻しながら心の中で亡き兄に語りかけた。
 兄上、私と一緒に走ってください―――




 チームMibroの全員がピットに集結した。
 円陣をしっかりと組み、隣り合った者と肩と肩を合わせる。
 セイは沖田と斎藤の間に入り、レーシングスーツとチームウェアの肩に手を置いた。
 皆が監督の近藤に視線を向ける。
 「・・・いくぞ!!」
 「おう!!!」
 短く鋭い近藤の掛け声に、全員が同じく返答した。
 ここまで来ていまさら言葉は必要ない。ただ全力あるのみ―――


 午前中のフリー走行が始まる。決勝前の貴重な時間。
 セイはパルクフェルメから戻ってきたマシンに身を沈めた。シートベルトを締め、ステアリングをはめこむ。ドリンクをチューブから少しだけ摂取した。
 誰かがコンコンとマシンのボディの右側を叩いてきた。そちらに顔だけ向けると、沖田が立っていた。
 「大丈夫ですか?」
 沖田はこそりと耳打ちした。先ほど円陣を組んだ時に見た彼女の面が青白かったからだ。
 テレメトリーで見たところセイの心拍数にも体温にも異常は見られなかったが、なんとなく心配になってやってきたのだった。
 こくこくとセイは頷いた。まだ顔色はよくないが、視線はしっかり定まっている。
 それを見定めた沖田は右手を差し出した。
 「いいレースにしましょうね」
 にこりと微笑まれ、セイの顔に血が上った。頬を赤らめながら自分も手を出して握手を交わす。
 グローブ越しに伝わる力強い感触。
 ぐっと支えられたような気持ちになり、セイの口元にも微かに笑みが宿った。

 空模様は朝方の晴天から薄曇りに変化していた。午後の降水確率は30パーセント。山の天気が変わりやすいのはこの霊峰の足元でも同じだ。
 ゆっくりとピットから発進し、長いストレートエンドから1コーナーへ飛び込む。
 沖田とセイは晴れのセッティング、曇りのセッティング、そして雨の場合のセッティングを試し、同時にコースを確認した。
 どこが上りでどこから下り、曲がる際にはブレーキをどこまで我慢できるのか。わずかな傾斜すらも丁寧に丁寧に探っていく。
 そんなことをしながらの1時間は、あっと言う間に過ぎていった。


 マシンをガレージに誘導し、クルマから降りた。
 これでもう午後の決勝スタートまでマシンを操縦する事は出来ない。
 近藤と山崎に細かいところを注意されてから、沖田とセイは早めに僅かばかりの昼食を取った。
 セイは緊張で食べられないのだが、沖田は食事より甘いものを優先していた。
 「甘いものを食べてリラックスですよ、神谷さんもおひとついかがです?」
 と、サーキット内の売店で売られているクッキーを進めた。
 「いえ、いいです・・・沖田先輩の食べてるところを見てるだけでお腹いっぱいです・・・」
 げっそりとした表情でセイが呟いた。
 そうですか、とクッキーの箱を抱え、沖田はぽりぽりとクッキーを食べ続ける。
 決勝前だと言うのに、どうも緊張感が見られない。
 斎藤にも勧めに行った沖田の背中を見て、セイはふうと溜息をついた。







 ドライバーたちが往年の名車に乗ってサーキットを周回するドライバーズパレードも終了し、午後。
 各チームのマシン22台がグリッドに並べられた。
 先頭にはもちろん沖田のマシン、カーナンバー1のクルマが煌いている。
 セイはその4つ後方、9番グリッドにマシンを止めていた。
 コース上はドライバー・首脳陣・スタッフ・マスコミ各社の取材陣・グリッドギャルなどで溢れ返っている。
 セイは土方と一緒にノートパソコンのデータを見ながら細かい指示を頭に入れていた。

 「土方くーん」
 そこへ土方を呼ぶ声がした。
 セイと土方が同時にそちらを向くと、そこにはチームEdgeの監督である伊東甲子太郎が立っていた。
 「やあ土方くん、それに神谷くん。デビューおめでとう」
 にこやかに伊東は祝いの言葉を口にしながら土方に近寄って握手を求めた。
 土方は心底嫌そうにその手を一瞥した。
 「土方くん、マスコミの皆さんもファンの方々も注目しているんだよ。印象を悪くしないためにも・・・ね」
 そう言って伊東はさらに手を近づけてきた。
 「どうも」
 殊更に冷たい視線を向け、土方は仕方なく伊東の手をさっと握り、すぐに自分の元へと戻した。
 「もう、土方くんは。いつもそうなんだから。でも君のそういうところに」
 「決勝前に何の御用ですかな」
 伊東の言葉をすっぱりと切り捨てて土方は言った。
 「そうそう、ウチのサードドライバーを紹介しておこうと思ってね」
 握手をした手を嬉しそうにさすりながら、伊東は自分の横に立っていた青年に目を向けた。
 「神谷くんと同様、今回デビューすることになった中村くんだ」
 「土方ディレクター、中村五郎です。よろしくお願いします。神谷、久しぶりだな」
 伊東が紹介したのはチームEdgeのサードドライバー、中村五郎だった。
 あまりに伊東の実弟・三木三郎が頼りないので、三木を下ろして中村を正規ドライバーに迎えたのだった。
 「ウチも新人のデビューを日本グランプリに合わせていたんだが、そちらの神谷くんにすっかり話題を持っていかれてしまったよ。もしかするとワザとかい?」
 確信に満ちた目つきで伊東が睨んだ。
 「まさかそんな」
 かすかに口角を上げて土方が笑う。
 「中村、やっぱりお前、Edgeにいたんだ?」
 セイが確認するように中村に聞いた。
 「ああそうだよ、お前を追いかけてやっとここまで上ってきたんだ」
 キッとまなじりを上げて中村が言い放った。
 中村は下位のカテゴリーで少しだけセイと同じレースに出ていた。その際、彼女に一目惚れし、以降どんどんとカテゴリーを上がってゆくセイを見つめ続けてきた。
 先にレースを始めたセイになかなか追いつく事が出来ずにいたが、今日やっと最高峰の舞台で再会を果たす事が叶ったのだ。

 「神谷、今日俺がお前に勝ったら、・・・俺の嫁になれ!」
 「えっ?」
 素早くセイの手を取った中村が叫んだ。
 セイも土方も、そして伊東も固まった。
 「何言ってるの中村、熱でもあるんじゃない?」
 ばっと手を振り切ってセイも叫び返した。
 「いいや、体調は万全だ。F1デビューしたらプロポーズすると決めていたんだ」
 ふんとふんぞり返って中村が言う。
 「だったら余計におかしいわ!ディレクター、戻りましょう」
 心底気味悪そうに顔をしかめ、セイは土方の腕をぐいぐいと引っ張ってピットへ退散していった。
 「あ、神谷!」
 「土方くん・・・」
 後に残された伊東と中村は、同じように手をMibroのガレージに向けていた。


 チームのピットに戻ると、沖田と斎藤が話していた。
 「あ、神谷さん。だいぶ緊張がとれた顔になりましたね」
 まったく緊張感を見せずに沖田が言った。
 「脱力もしますよ、あんなこと言われたら」
 セイは中村との会話を二人に聞かせた。
 「んもー、決勝前だって言うのに・・・」
 げんなりしながらセイは溜息を長く吐き出し、ヘルメットを抱えた。
 「そろそろ時間ですよね、私行きます」
 ぺこりと頭を下げてセイは自分のマシンへと駆けて行った。
 「・・・変なところからライバル出現ですね」
 「・・・ああ」
 沖田も斎藤も眉を顰めて話を聞いていた。
 「私たちも賭けますか?チャンピオンになった方が神谷さんと・・・って」
 まるでそんな気のなさそうな顔で沖田は斎藤に提案した。
 「その勝負はレースでつけるものではなかろう」
 斎藤ももちろん承知しているような表情で沖田に言った。
 「ですよねぇ」
 沖田は笑って自分もヘルメットを手に取り、マシンへと歩いていった。
 斎藤もテレメトリーの前に進み、山崎の隣に座って無線をつけた。



 場内に国歌の演奏が流れ、低い鐘の音が響き渡る。
 ざわめいていた観客席もだんだんと静かになっていった。



 フォーメーションラップが始まった。
 コースを一周してタイヤを暖め、エンジンを暖める。
 ステアリングを右へ左へと小刻みに動かして、タイヤの摩擦熱を得た。
 そして再びグリッドに着く。全員がラインにぴたりとマシンを合わせた。
 同じラインの遥か前に沖田がいる。

 1番グリッドの前方にある5つの信号。
 赤いランプが一つずつ灯ってゆく。
 その度にセイの心臓は大きく脈打った。
 5つの赤いランプがすべて付き、ふと黒く消えた。
 その瞬間、22のエンジンがいっせいに唸り、ベタ踏みされたアクセルとタイヤが同調して走り出した。


 セイはひとつのミスもなくマシンを発進させることが出来た。
 自分でも不思議なほど落ち着いてステアリングを握っている。
 ストレートを抜け、右に曲がる1コーナー。
 1台も欠けることなく全台が一斉にコーナーへと突っ込んできた。
 セイはシフトダウン、ブレーキ、ステアリングを駆使して、スムーズに曲がりきった。
 その見事な挙動を見て、観客は大歓声を上げている。
 ピットでは近藤たちがモニターで同じシーンを見てほっと胸を撫で下ろしていた。
 「だがまだこれからだぞ神谷君・・・」
 再び顔を引き締めて近藤は呟いた。

 セイは順位を落とさずに最初の周回を終えた。
 8位までがポイントを獲得できる。現在の9番手という順位はその境目だ。
 (なんとかあと1台・・・)
 セイはストレートを全開で駆けながら思った。
 斎藤のように多くのポイントは望めないが、せめて8位に入り、1ポイントでももぎ取ってチームに貢献したい。
 残りは66周。その中で前を走るマシンを1台、1台だけでいい、抜きたい。
 クルマ2台分ほど先を走る前のマシンのテールを見つめ、セイはアクセルを踏み込んだ。
 何度かコーナーで追いつこうと努力したが、なかなか差が縮まらない。
 『神谷君、あせってはいけない。チャンスを待ってここは辛抱するんだ』
 無線から近藤の声が聞こえる。
 胸の奥をチリチリと焼きつかせながら、セイは近藤に従った。


 一方、ポールポジションからスタートした沖田は、同じく2番手スタートの藤堂平助の猛追を受けていた。
 最初に1コーナーへ進入した際、藤堂とサイドバイサイドに並ばれて、かろうじて先にコーナーを脱出した。
 その後は抜かれそうで抜かれない、並ばれては先んじてを繰り返し、見ているほうが胃の痛くなる展開になった。


 20周を過ぎ、各チームは最初のピットストップを開始した。
 途中でガソリンを補給しないと67もの周回を走りきる事は不可能だし、現在は1レース中にソフトタイヤとハードタイヤの2種類を必ず使用しなければ ならないルールになっている。つまり、ピットに入ってタイヤ交換が必要だ。
 また、状況によりウイングの角度を調整してダウンフォースをコントロールしたり、走行中にマシンの隙間に詰まるゴミを掻き出したり。
 それをものの数秒から数十秒で行うピットクルーの技術。これもまた、ドライバーと同様に訓練の賜物である。
 セイが先にピットに入り、スムーズに作業は終了した。

 ところが、コースに復帰したときに中村五郎が素早く前を制して1コーナーを曲がっていった。
 中村はセイの2つ後ろ、11番手からのスタートだったが、じりじりと差を詰めて10番手のマシンを追い越し、セイのピットアウトと同時に 前へ踊り出たのだった。
 「やった!」
 コーナーを出た中村は加速しながら小さくガッツポーズをした。
 「・・・!」
 セイは何とか自分を律しようとながらも、徐々に冷静さを欠いていった。
 ひとつだけでも順位を上げたいと思っているところへ、それも中村五郎に先を行かれるとは。
 レース前の中村の言葉がちらつく。
 もし彼が本気であの言葉を口にしたんだとしたら。
 まさか無理やりに婚姻届を出したりはしないだろうが、今後うるさく付きまとわれるくらいはやりかねない。
 以前同じカテゴリーで走っていた時もかなりしつこかった。こうなったら面倒なことになる前に中村の先へとマシンを出す必要がある。
 セイは焦燥感にかられながら、なんとか中村を追い越そうと躍起になった。
 そしてだんだんとレコードラインを踏み外すようになってきた。
 最も早く走れる理想のラインを踏襲できなければ、前のクルマを抜かすことも難しくなってくる。
 『神谷、落ち着け。まだ半分以上レースは残っている。オーバーテイクのチャンスは必ずくる』
 土方が無線でセイに呼びかけた。
 だが、返事はするもののセイの焦りはなかなか消えず、不安定な走行ラインのままひたすら中村のマシンだけを追っていった。


 2回目のピットストップが終了した時点で、セイはいまだ10位、沖田は藤堂とともに3番手以下を大きく引き離してデッドヒートを演じていた。
 残り周回数は3分の1だが、前を行く中村の背中が近くならない。
 なんとかピットストップの間に中村の前に出たかったが、伊東率いるEdgeの作戦もなかなかの様で、簡単には抜かせてもらえなかった。
 たまるストレス。抜けない相手に対して。そして抜けない自分に対して。
 『神谷!』
 斎藤が無線で話し掛けてきた。
 『しっかりしろ!今お前は充分責務を果たしている。中村ではなくコースを見ろ!』
 低く落ち着いた斎藤の声。
 死んだ兄にも似たそれに、セイはやっと我に返った。
 改めて自分の走るラインを確認する。頭に描いたラインと実際に走っているラインに誤差が生じているのにようやく気が付いた。
 とりあえず中村に離されないように注意しながらステアリングを修正する。
 セイはオイルや埃で汚れてきたバイザーの表面を一枚剥ぎ取り、投げ捨てた。
 送られてくるデータを見ながら、テレメトリーの前の首脳陣も落ち着きを取り戻した。
 しばらくそのままで周回が過ぎ、トップ2人の争い、30秒以上隔てられてダンゴ状に連なった3番手以降の着順、そしてセイの8位入賞は時間との戦いになった。



 あと残り10周と言うその時。
 俄かに西の空から黒く厚い雲が忍び寄ってきた。先ほど確認したレーダーでも、間もなく雨が降ってくると知らされていた。
 コースの終わりに近い連続したコーナー区間の空が、今にも雨粒を落としそうな重たい灰色に侵食されていく。
 あと少し、レース終了までもってくれと、チームも観客も祈るような気持ちで空を見上げた。

 膠着状態のままさらに5周が経過した。
 進行方向上空には、無線で知らさせていた通りに雨雲が見える。
 セイは前を走る中村のマシンを見据えた。もう時間もチャンスも残り少ない。この先のコーナー連続区間を抜けたらあと4周しかない。
 この辺りで勝負を賭けないともう後がないのに、思うように加速ができない。
 時々、妙な感覚が背中から襲ってくる。
 緊張と焦りだろうか、何かが体の奥から突き上げてくるような感じがする。
 無線で現状を告げながらセイは必死に耐えてラインを踏んだ。

 セイの報告を受けたピットの陣営は、その後の近藤の言葉に一瞬しんと静まり返った。そして椅子に腰掛けて彼女をモニター越しに見守っていた。
 その時が来るのを待って。



 1周、また1周と、確実にセイは中村との差を詰めて行った。すぐそこに中村のマシンの後姿が見える。


 その時だった。
 ぽつり、ぽつりとバイザーに落ちてきた水滴が、針のように鋭くレーシングスーツを叩いてきた。
 ザアッという音と共に、ヘルメットが外側から激しく打ち付けられる。
 突然の豪雨。
 雨は予測していたが、ここまで急に激しくなるとは誰も予想していなかった。
 コース上のアスファルトが雨で色を変えてゆく。あっと言う間に路面には川のように水が流れ出した。

 「!」
 悪くなった視界とタイヤのグリップに気を取られ、中村がコーナーの外側にほんの一瞬大きくブレた。
 セイはその隙を見逃さなかった。

 その刹那。

 セイはまるで真空の中にいるかのような、何も聞こえず周囲の時が止まったような感覚に陥った。
 前を走る中村のマシンの軌道が正確に予測できる。
 スローモーションで動く映像の中に入り込んだかのように、セイはマシンと共に空いた空間にするりと滑り込んだ。

 ふと横を見ると、中村が驚愕の表情でこちらを向いているのが目に入った。
 内側のラインをトレースしながら、セイは前を向き、マシンと一体となってコーナーの向こうへと走っていった。

 アクセルを踏み込んでステアリングを回す。タイヤが連動するのが体で分かる。
 次のコーナーにまた1台先んじる者があった。
 それに対しても静かに距離をつめ、瞬く間に前へ飛び出した。

 最終コーナーを回り、グランドスタンド前の長い長いストレートに戻ってくる。
 スタンドには旗と言わずタオルと言わず、もうとにかくMibroのグッズをちぎれんばかりに振る観客が総立ちになっていた。
 1コーナーを鋭い挙動でターンすると、次のマシンをすでに捕らえていた。追われる方のマシンはなす術もなく彼女に交わされてゆく。

 ピットでは近藤たちが手を叩き合って喜んでいた。
 セイが無線で伝えてきた妙な感覚。あれと同じモノを近藤も昔、体験していた。
 無線を切った後、近藤は皆に伝えた。
 「神谷くんの『覚醒』が近い」
 と。
 そして遂にセイは『覚醒』を果たした。
 本当に早く走るものだけが体感する「神速の領域」へと。
 こうなったドライバーに対抗する手段は何も無い。

 残りはあと1週。これがファイナルラップだ。
 雑念が入り込む余地も無く、セイはひたすら前だけを見据えて走った。
 全台が晴れ仕様のタイヤを履いたままであったため、セイの前を行く1台がずぶ濡れの路面を捉えきれずにスピンした。
 あとたった半周だというのにそのマシンはタイヤバリアにノーズから突っ込み、レースを終えた。
 セイはその横をさっと通り過ぎ、いよいよ最後の連続コーナーへと向かっていった。

 次のターゲットがコーナーに差し掛かろうとしている。その外側を攻め、リアタイヤがぶつかってはじき出されそうになりながらもセイは踏ん張った。
 ぐっと内側に寄るラインに着実に従い、挙動を乱さず、さらにもう1台の前へ踊り出た。
 最後のコーナーを立ち上がった時、前方に白いウォータースクリーンを上げながら走る影が見えた。
 セイはそのテールを目掛けて思い切りアクセルを踏み――――――――






 2時間に渡るレースが終了し、表彰式が始まった。
 ポディウムの最上段、優勝カップを受け取り高々と手を挙げたのはMibroの沖田総司。
 2位の藤堂平助と最後の最後まで競り合い、コンマ6秒差でチェッカーフラッグを受けた。
 隣で準優勝のカップを手にした藤堂と肩を叩き合って健闘を称えた。
 監督の近藤もチームを代表してコンストラクターのカップを受け取り、満面の笑みでカップのプレゼンターと握手を交わした。

 国旗日の丸が空高く掲げられ、国歌が演奏される。
 戦いが済んだことを祝福するように空は晴れ渡り、先ほどまでの雨が嘘のようだ。
 表彰台のある2階のテラスからシャンパンファイトの飛沫が降りかかる。
 セイは他のクルーたちと一緒にその飛沫を浴びた。
 あと一歩、あとマシン1台分の距離でセイは3位入賞を逃してしまったのだった。
 もうひと呼吸早く最終コーナーを回っていたらどうなっていたことか。
 悔しい気持ちはあるけれど、達成感でいっぱいだった。

 「行きますよー!」
 沖田がテラスから身を乗り出し、シャンパンの瓶を下に落とした。
 斎藤がその瓶をキャッチした。
 そしてくるりと振り向くと、シャカシャカと瓶を振り、その口をセイに向けて栓代わりにしていた親指を離した。
 「きゃあ!」
 勢いよくふき出すシャンパンに、セイは頭からずぶ濡れになった。
 「やったな神谷」
 突然シャンパンを浴びせられて呆気に取られるセイに向かい、斎藤は祝福の言葉を送った。
 雨とは違う、勝利の香り。
 周りを見回すと、Mibroのメンバーが全員こちらを見ていた。
 「神谷!」
 「おめでとう!」
 口々にセイの入賞を祝い、皆がセイに殺到してきた。
 もみくちゃにされながらセイは、やっと己が4位に入賞したのだという実感を持った。
 表彰台に上がれなかったのに、こんなに皆が一緒に喜んでくれている。
 日夜必死にマシンを組み上げてくれているメカニックたち。
 ファクトリーで研究を重ねてくれている仲間たち。
 マシンが常にベストの状態で走れるように調整・修理してくれるピットクルーたち。
 そしてレースの全てを管理し、チームを導いてくれる監督やディレクター。
 セイはそのすべてに感謝した。
 このチームで走れた事を、こんなに誇りに思った事は無い。
 この4位入賞をチームにもたらす事が出来て、本当によかった。
 私はこれからもこのチームで・・・






 ささやかな祝勝会が行われ、優勝した沖田とデビュー戦で4位に入ったセイを皆が祝った。
 借り切ったホテルの一室に料理が運び込まれ、ホームグランプリでの最高の成績を称えた。
 散々飲み食いしてそろそろ宴がお開きになろうかと言う頃、土方は小さな灰皿を手にベランダへと出た。
 カチリとライターを鳴らして煙草に火をつける。
 ふーっと長く煙を吐き出すと、柱の影から人が現れた。
 「お、なんだトシか」
 近藤だった。
 「なんだはねぇだろ」
 苦笑いしながら土方は加えていた煙草を指で挟んだ。
 「・・・やったな」
 携帯灰皿に煙草を押し付け、近藤は手すりに寄りかかった。
 「ああ」
 土方は風に流れてゆく煙を目で追った。
 「まさか神谷があそこで目覚めるとは思っていなかったがな」
 「嘘付け、こうなることも計算の上だったんだろう、トシ」
 土方の台詞をいとも簡単に否定する近藤。
 「・・・俺は信じていたよ、お前がきっとそう考えているのだろうと」
 「ははっ、そりゃ買い被られたモンだな俺も」
 いたずらを見破られたように土方は肩を竦めて笑った。

 「だが、これからだ」
 近藤は背筋を伸ばして声を低めた。
 「今シーズンはまだあと2戦。そしてチームがより強力にまとまって来年を目指すのもこれからだ」
 すでに今日の勝敗からは脱して次のレース、次の年のことを考えなくてはならない。
 「そうだな・・・」
 土方はあまり吸わずに短くなってしまった煙草を灰皿で消した。
 「ドライバーもチームもまだまだ青く若い。俺たちは進まなきゃならねえんだ」
 部屋の中では沖田が、セイが、そして斎藤が仲間たちと談笑している。
 特に表彰式からすぐにレース後のインタビューに向かった沖田は、セイをさかんに褒めたてているようだ。
 その隣で斎藤が何か言ったらしく、沖田に突っ込まれている。
 「すぐに次のグランプリだ。そろそろ片付けて向かうぞ」
 「ああ」
 近藤はベランダのドアに手をかけた。
 「トシ」
 「俺はもう一服してから行くよ」
 「そうか」
 近藤はひとりでドアを開けて中に戻った。

 近藤が祝勝会の終了を告げる声が聞こえてくる。
 背中でそれを感じながら、土方は2本目の煙草に点火した。
 誰も見てない暗闇に安堵の表情を浮かべる。
 計画が成功するかどうかは賭けだった。
 もしセイがレーサーとしてここで降りてしまうようなことがあれば失敗する。そうなったらまた1からやり直さねばならなかった。
 だが彼女は見事にやりきった。
 土方は再び長く煙を吐き出した。






 次週に行われたグランプリ、そしてその2週間後に行われた最終戦でもMibroは健闘し、ドライバー・チーム共々年間総合優勝を果たした。
 世界各地を転戦し、あらゆる気候と天候、コースなどに自在に対応し、7ヶ月に及ぶグランプリサーカスは終了した。
 それぞれのチーム、それぞれの個人に、今年の結果は何をもたらしたのであろうか。
 そして来年のレースへ向けて早くも各チームは動き出す。
 新しいマシン、新しい戦略、新しいコース。
 厳しいレギュレーションの中で、来年はどのようなレースを見せてくれるのだろう。

 そしてシーズン後、セイを巡る人間模様がどのようになっていったのかは、また別に。






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