久遠の空 拾萬打記念企画  その7



calling  〜おじさまにお願いシリーズ 番外編〜


 土曜日、早朝。
 近藤道場は毎週土曜日の午前中、子どもたちに稽古をつけている。
 子どもたちが来る前の道場に、ひとりで雑巾がけをする姿があった。

 それはセイだった。
 道場の隅に水の入ったバケツを置き、乾いた雑巾を浸してぎゅっと絞る。
 雑巾を二つに折りたたむと床に押しつけ、だだだっと勢いよく床の上を走り出した。

 床は拭き清められて、朝日を受けて輝く。
 端まで行ったセイは折り返すとこちらに向かって雑巾をかけながら戻ってきた。
 広い道場を一人で拭くのは大変だが、子どもたちをきれいな道場で迎えたいとの思いで行っている。

 高校三年生になったセイは、近藤の道場で子どもたちを教えるようになっていた。
 入門してからのセイはめきめきと腕を上げて、小学六年生の女子の部では全国大会に出場するまでになった。
 セイは中学生になってからも研鑽を積み、とうとう全国大会で優勝するほどの腕前に成長する。
 高校に進学しても部活は剣道部に所属、新人戦でいきなり頂点に立ち、その後も独走を極めた。その華麗な剣捌きからついたあだ名が“花の阿修羅”である。

 指導は厳しいが明るいセイに、子どもたちはよくついてきている。
 こつこつと大会で勝ちを積み上げる子も出て来た。
 セイはそれを嬉しく思い、稽古にもまた一層力が入るのであった。


 「おはようございます、お疲れさまです」
 と、道場の入り口から声がした。
 総司が欠伸をしながら道場に入ってきた。
 「お帰り総ちゃん。今帰ってきたの?」
 セイは不満を顔いっぱいに上らせ、頬を膨らませた。
 「ええ」
 「いつも部活とバイトばっかりで、ちっともいないじゃない。いくらデザートがおいしいファミレスだからって…」
 「セイも来ればいいじゃないですか。私の休憩時間に合わせて来てくれればおごりますよ」
 「いいっ」
 手を差し伸べる総司に、セイはぷいっと横を向いた。




 総司は剣道の才能が認められて大学への推薦入学が決定し、剣道に打ち込んだ。そして僅かな休日や深夜にバイトを始めた。 近藤の家からもっとも近い駅の付近にある24時間営業のファミレスで、四季折々のデザートがおいしいと評判の店だ。 勤務を始めてから、暇さえあればほとんど店に入り浸っている。

 セイも総司が働いているファミレスに行ってみたいと思わないわけではない。
 実は総司に内緒でこっそりと行ったことがある。休日の夕方、忙しいケーキ付きティータイムが終わった頃を見計らい、 セイはたまたま部活がない日に総司の店を訪れた。ちょうど総司がティータイムの看板をしまうために店の外に出てきた。
 セイは総司に声をかけようとしたが、その時店の中から同じ店の制服を着た同じ年ぐらいの女の子が出てきて、総司が持つ看板の端に手を添えた。 総司はその手を除けてひょいと一人で看板を持ち、女の子と朗らかに話をしながら店の中に戻っていった。


 総司は自分の幼なじみで、いつでも自分の側に、いや、自分だけの側にいてくれると思っていた。
 しかし総司のバイト先で、自分の知らない別の女の子と仲良さそうにしているのを見てショックを受けた。総司は自分の知らない顔で笑っていた。
 その時、セイは初めて自分が総司に向けている感情が恋だと気づいたのである。


 幼稚園からずっと同じ学校に通っているので、総司が女子に人気があるのをセイは知っていた。
 浅黒くてヒラメ顔のくせに、物事にこだわらないおおらかな性格が受け入れられているのだ。
 だが、自分の知らないところで知らない子と、知らない笑顔で話しているのを見てしまった。
 同じ大学の女の子なのだろうか。セイも同じ大学に進学が内定しているが、もし校内で総司とその子が親しげにしているところを見てしまったらと思うと、 セイは胸が痛かった。
 それ以来、セイは出来るだけ総司と顔を合わせないようにしていた。




 「お手伝いできなくてすみませんね。ちょっと休みますけど、子どもたちが来る頃までには支度してきますから」
 総司はうーんと伸びをして、また欠伸をした。
 「別にいいよ、近藤先生と私だけでも教えられるもん。また夕方からバイトでしょ、少しはゆっくり休んだら?」
 セイはかがむと雑巾を洗って絞る。
 「それじゃあセイが疲れるでしょう。セイこそ明日は試合で大変じゃないですか」
 「大丈夫」
 セイは唇を尖らせると、再び勢いよく床を拭きだした。

 「…とにかく、稽古には来ますから。心配しないでくださいね」
 総司はセイの後ろ姿に声を掛ける。
 「してないっ」
 セイは大声で否定した。
 総司は苦笑いを漏らすと道場から出て行った。



 セイは一人で雑巾がけを済ませた。
 涼しい季節になっても動けば汗を掻く。セイは掃除用具を片付けて手をきれいに洗うと、汗をタオルで拭いながらかばんの中の携帯を取り出し、 登録してある電話帳の中から1件を選ぶと通話ボタンを押した。

 呼び出し音が数回鳴り、相手が出た。
 『…もしもし』
 「おじさま? 聞いてよ、総ちゃんったら酷いのよ、また朝帰りで」
 セイの電話の相手は土方である。
 土方が出ると同時にセイは話し出した。

 『社会人を週休二日の一日目の朝っぱらからたたき起こすのは酷くねえのか』
 ひとしきりセイがまくしたてた後、土方はだるそうに呟いた。
 『文句があるなら直接総司に言え。俺に言ってどうする』
 「言ったもん」
 とセイはふくれっ面をする。
 『じゃあ俺に言う必要なんかねえだろ』
 セイの持つ電話の向こうから小さな摩擦音がし、続けて息が吐き出されるのが聞こえてきた。土方が煙草に火を付けたようだ。

 「…総ちゃん、もしかしたら彼女いるのかもしれない」
 セイは心配事を口にした。
 『あ?』
 土方が問い返す。
 「総ちゃんだっていろいろ物要りなのはわかるけど、それにしたってバイトばっかりなんておかしいもん」
 『いたって構わねえだろ。お前ら付き合ってるわけでもねえんだし』
 「やだっ」
 『ならお前から告って付き合え』
 「…やだ」


 二人とも少しの間、何も言わずに黙った。
 『今日は道場の日だろ。ガキどもはまじめにやってるか』
 土方は別の話題を振った。
 「うん、土方先生よりセイ先生の方がいいって」
 『そりゃあ今度稽古に出た時が見物だな、セイ先生のご指導がどれほどのモンなのか』
 「うん」
 セイは少しだけ笑って返事をする。

 「おじさま、いつこっちに戻ってくるの?」
 とセイは切り出した。
 土方は北海道に転勤になって数年、東京に戻ってくる気配がまるでない。まとまった休暇が取れないほど忙しいようだ。
 海を渡った遠い地でひとり暮らす土方を、セイは心配していた。
 『さあな』
 土方の声は素っ気なかった。同時に煙を吐き出すのが電話越しに聞こえてくる。
 『余計な心配はしねえで今日の稽古と明日の試合のことだけ考えろ。今年最後の大会だろ』
 「うん」
 セイが明日出場する大会は今年度最後の大会で、本来は高校生であるセイが参加できるものではない一般の大会なのだが、その強さで 特別に出場が認められたのである。
 「明日、大会が終わったら結果報告のメールするから」
 『せんでいい』
 「もう、おじさまったら」
 土方の物言いに、セイはまるで土方が目の前にいるように拳を軽く振り上げた。

 その時、土方の携帯からぷつぷつと雑音が聞こえてきた。
 『キャッチだ。またな』
 土方の電話にキャッチホンが入った。
 「うん、じゃあ明日」
 『ああ』
 セイは土方の返事を聞くとすぐに通話を終了させた。土方に愚痴をこぼしたことで気分が軽くなり、稽古に集中できそうな気がしてくる。
 鞄に携帯をしまうと、セイは朝食をとりに近藤家のダイニングへ向かった。



 『もしもし』
 土方は携帯のボタンを押して通話を切り替える。
 「土方さん?」
 今度は総司から土方に電話がかかってきた。
 「セイを怒らせてしまったようなんですが…」
 『そのようだな』
 土方は2本目の煙草に火を付けた。
 「あ、やっぱり土方さんに電話いきましたか」
 総司は苦笑する。
 『お前ら二人揃って朝っぱらから独り身の社会人に惚気話聞かせてんじゃねえよ』
 「ははは」


 『言っちまったらどうだ、お前がバイトしている訳を』
 土方は徐に言い出した。
 「うーん…」
 総司は近藤の家にある自室で、風呂上がりの髪を拭きながら笑った。昔から近藤の家にしょっちゅう出入りしていたが、 大学生になった総司は近藤の家の一室を借り、そこから大学に通っている。
 総司がバイトを始めたのには理由があった。学費だけは両親に出してもらっているが、近藤の家への下宿代は自分で払いたいのと、もうひとつ大事なことがある。 総司はその大事な理由を土方だけに話していた。
 「でもねえ、まだ付き合ってるわけじゃないし」
 『ついでにその辺もまとめてしゃべっちまえ。こうして振り回される俺の身にもなってみろ』
 「すみませんね」
 呆れたような口調の土方に詫びながら、総司は遠い昔のことを脳裏に浮かべた。


 あれはセイがまだ幼い頃。
 総司とセイは、土方にディズニーランドへと連れて行ってもらったことがあった。一日を楽しく過ごし、近藤の家に戻って夕飯を食べ、 土方が自宅に帰る時にセイが土方に耳打ちした言葉があった。
 今度はディズニーシーに行きたいと言うセイに、土方は今度は彼氏に連れて行ってもらえと言ったのだ。

 それからセイはランドには行ってもシーには行っていない。彼氏が出来たら連れて行ってもらうと心に決めているからだ。
 総司ともランドには時々足を運んだが、シーに行くのは頑なに拒否している。

 総司はその理由を土方から聞いた。
 そして自分が連れて行ってやろうと、大学生になるや否やバイトを始めた。今までは親からもらう小遣いを貯めてランドに行っていたが、 セイをシーに連れて行くのは自分で稼いだ金でないと意味がないと思ったからだ。
 学校や剣道のため少ない自由時間でバイトをするのはきつい時もある。が、セイのために総司は極力時間を割いて働いていた。



 「連れて行って存分に遊ばせてあげるには、まだまだバイトしなきゃいけないんですよ」
 総司はごろりとベッドに横になった。
 『とりあえず告っちまえばいいだろ。悠長なこと言ってる間に誰かにかっさらわれても知らねえぞ』
 土方の、煙混じりのため息が聞こえてきた。
 「それは困るなあ」
 総司はくすくすと笑いながらベッドのサイドテーブルに置いてある写真立てに手を伸ばす。そこには幼き日の自分とセイが写っている写真が収められていた。 ことりと写真立てを戻し、総司は同じテーブルの上にある水のペットボトルを開けてごくりと水を飲んだ。

 『ついでにもうちっと稼いでシーの近くのホテルにでも泊まってヤっちまえ』
 「ごほ、な、何を焚きつけてるんですか土方さんは」
 土方の言葉に総司は思わず水を吹き出してしまった。
 『めんどくせえんだよいちいち。とっととケリつけちまえってこった』
 「それはご助言どうもありがとうございます」
 まだ少しむせながら総司はタオルで口元を拭いた。

 『これから道場だろ。少し寝ておけ』
 「はい、土方さんもゆっくり休んでください」
 『電話して来なきゃ休めらあ』
 「そうですね、すみません。お休みなさい」
 『ああ』
 総司と土方は同時に携帯を切った。



 土方は携帯を閉じて枕元に置くと、煙草を消して再び布団を被った。
 あの幼かった子どもたちがもう十代も半ばを過ぎ、互いに恋するようになった。
 小さい時は行動に振り回され、大きくなってきたら今度は恋愛の相談で振り回される。
 きっと二人が結ばれればまた惚気まがいの愚痴を聞かされ、夫婦になったらなったでまた振り回されるのだろう。
 土方は容易に想像できる未来にいい加減にしろと思いながら目を閉じた。


 午前十時より少し前、総司とセイは道場の扉を開けて生徒たちを待ち受けた。
 子どもたちは元気な声で挨拶をしながら道場に入って来て身支度を調える。
 まもなく近藤が道場に現れ、稽古が開始された。

 道場には原田の息子である茂が通っており、何かとセイにちょっかいを出している。
 セイは子どもだからと軽くあしらっているが、茂は本気だ。
 総司は土方の“誰かにかっさらわれても知らねえぞ”という台詞が頭をよぎり、今のうちにやはりセイに告白しておくべきかと首を傾げた。



 翌日の大会にてセイは招待選手として奮闘した。
 優勝こそ出来なかったが主催者から優秀賞をもらった。
 セイはその賞状と、応援に来てくれた総司と共に携帯で写真を撮り、約束通り土方にメールを送信する。
 子どもの頃から全く変わらない笑顔が添付されたメールを見て土方は、まだまだこの二人には振り回されそうだとひとりでコーヒーを啜ったのであった。














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